中年実業家の悲劇
山中修也、享年51歳。
虎ノ門ヒルズにある自身のオフィスから「頭が痛い、医者を呼べ」と秘書が電話を受けてからわずか38時間。
くも膜下出血と診断され緊急手術が行われたが、二度と目覚めることなく、還らぬ人となってしまった。
秘書の話によれば、山中は医者嫌いで有名だったそうだ。“その時代の人”らしく、ヘビースモーカーで飲酒量も多く、血圧の話になると途端に機嫌が悪くなったらしい。
本人も「おれは長生きしないよ」と口癖のように言っていたようだが、その日、彼のオフィスの机には、半分飲みかけのグリーンスムージーが残されていた。妻の塔子が毎朝持たせてくれる、と周囲にのろけていたものだ。
本人も、まさか予想もしていなかっただろう。残りの半分を飲みに戻ることが永遠にできないとは。
そもそも、山中修也という男の経歴は少々変わっている。
二代目であることは間違いない。が、彼が生まれたのは虎ノ門ヒルズから日比谷線で16駅も離れた、足立区にある小さなクリーニング屋だった。
3人兄弟の次男坊だった山中は、兄弟の中で唯一勉強ができたようで、一橋大学の法学部にストレートで入学。
卒業後は大手銀行に就職するも、父親が倒れたことからわずか26歳で家業のクリーニング屋を継ぐことになる。
今でこそ、コンビニや自宅で衣服を受け取れるのは当たり前だが、山中はいち早くそれを見抜いた。
まだインターネットすら普及していなかった時代に、宅配サービス、そしてそれに紐づく顧客情報そのものが高額で取引される時代を予見し、10年もしないうちに下町の小さな店を一部上場企業に仕立て上げたのだ。
「白シャツ王子」。当時、青年実業家としてマスコミに登場することもあった彼につけられたあだ名である。
筋肉質ではあるがギラギラしたところがなく、どことなく上品な清潔感のある風貌はテレビ映えしたようだ。
あくまでも、当時は、の話だ。
「白シャツ王子」のブームはとうの昔に去り、中年となった山中の死は、新聞の訃報欄に小さく載った程度でニュースにすらならなかった。
◆
真奈は、山中修也の死について事前調査したあれこれを思い返していた。
事件性はない。生命保険の加入時期や掛け金にも何ら不審な点はなく、真奈のような保険調査員の出番も、本来ならばないはずだ。
ではなぜ今ここにいるか。
真奈はチラリと、リビングの飾り棚に目をやった。
この記事へのコメント
一番、プライベートガーデン付きのリビング@35階が気になりました♡
見てみたい!
これって紀州のドンファンの事件からきてるのかな?