拓斗からの要望
「ううん、仕事忙しいのにありがとうね」
香織は、拓斗と会う時には、最大限物分かりの良い大人な女性を演じる。エリートと付き合うためには、このくらいの演技は必要だ、と考えているからだ。
「どの料理もいつも美味しいな、ここのは。でも最近、やっぱり家庭料理とか恋しくなるんだよね。定番だけど、肉じゃがとか魚とかさ」
先ほどから拓斗の美しい横顔に見惚れていた香織は、その言葉に、ここぞとばかりに反応した。
「本当?じゃあ、今度うちに食べに来る?」
香織はずっとこの日を待っていたのだ。男はまず胃袋から掴め、といった教科書通りの言葉を忠実に守り、拓斗と会えない日には、日々料理を勉強していた。
「香織、料理できるんだっけ?前に言った時、あまり良い反応じゃないからできないのかと思っていたよ」
付き合ってすぐの頃、拓斗に手料理を食べたい、と言われたことがある。しかし、その時の香織はまだ腕に自信がなかったため、完璧にできるまで密かに研究を重ねていたのだった。
「そんな大したものはできないけど、それでも良ければ拓斗のために頑張るよ」
「やった。それじゃ、今度香織の家に食べに行くよ。来週の日曜なら空けられると思う」
嬉しそうな拓斗に微笑みながら、香織は心の中で「ヨシっ」と思う。
拓斗は歴代の彼氏の中で一番だった。高学歴高収入というハイスペックに加え、身長は180センチ近くあり、顔は爽やかな若手俳優のように整っている。一緒に歩くだけで女性たちからの目線を感じるほどだ。
—拓斗と結婚できるためなら、なんだってやるわ。
帰宅後、香織は早速コツコツとつけてきた料理ノートを開く。そして、肉じゃがのページを開き、記憶を呼び戻した。「甘味系調味料を入れた後は5分以上空けてから醤油を入れる!」や、「アクは取りすぎないこと!」など細かく記してある。
「やっと披露する時が来たわ!完璧に作って、絶対に拓斗の胃袋を掴むわ」
そんな決意を胸に、献立を何にしようかワクワクと考えながら、香織はいつの間にか眠りに落ちていた。
それから香織の夕食には連日肉じゃがが並んだ。今でも十分に美味しいのだが、念には念を、と飽きるほどに作っては反省を繰り返す。
自分でも驚くほどの情熱だと思いながら、一生がかかっていると思うと、全く苦にならなかった。
◆
「この肉じゃが、すっごく美味しい。そこらの店のより断然美味しいよ!」
予定していた日曜日。
拓人は18時過ぎに香織の家に到着した。机には手作りした肉じゃがに加え、キスと舞茸の天ぷら、蓮根と人参の金平、蕪の海老あんかけと具沢山味噌汁、さらに鶏肉の炊き込みご飯が並んでいる。
今日は朝から一人で買い出しに行き、拓斗のために準備をしたのだ。
「そんな、大げさよ。普通に作っただけだよ」
口ではそう言ったが、心の中では当然よ、と思う。
「いや、どれも絶品だよ。それに、好きなものばかり。香織がこんなに料理がうまいなんて知らなかった」
海外が長かった拓斗は、日本ではいつも和食を食べたいと言っていた。なので香織は、和食なら何をリクエストされてもいいように完璧にしていたのだ。
拓斗は心底感心しながら全てをペロリと完食した。その姿を見た香織も、これまでの努力が全て報われたように感じ、ホッと胸をなで下ろす。
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最低すぎる!天罰が下ることを祈ります