2018.04.11
朝子と亜沙子 Vol.1
「中川さん。」
東京駅から本店に戻る途中、背後から急に声をかけられた。
驚いて振り返ると、そこには一年先輩の紀之が立っている。
「久しぶり。本店に異動になったんだってね。よろしく」
朝子が彼と初めて会ったのは、自由が丘支店で働いていた時の表彰パーティーだった。
全国ナンバーワンに4度も輝いている紀之は、ハンサムな上に身体つきも逞しく、まさに男の中の男という感じだ。朝子はずっと彼に憧れていたのだ。
「紀之さん!これからよろしくお願いします」
しばらく会話をした後、これからお客さんと食事に行くのだと言って紀之は立ち去った。
その背中を見送りながら、朝子の胸はドキドキと高鳴っていた。
◆
朝子が不穏な空気を感じ取ったのは、その翌朝のことだった。
隣の席の篠原は、いつも背中をギュッと丸くし、隠れるような姿勢で電話をかけている。
「おい!お前!今日入力最終の債券終わったのかあ?」
背中越しに突然放たれた寺島の大声に、朝子は肩がビクッとなる。驚いて寺島の方に目をやると、どうやら篠原に向かって言ったようだ。
「あ、今、詰めてるところで…」
蚊の泣くような声で篠原が答えた。
寺島は、椅子の背もたれ限界までふんぞりかえって、暑くもないのに扇子を仰いでいる。
その後も、背後からは絶え間なく続く寺島の貧乏ゆすりと、篠原への「いくら詰まった?」という声が一時間おきに聞こえてくる。
席から離れることも受話器をおくことも許されないような緊迫した時間が、じりじりと流れていた。
既に14時を過ぎているが、朝子も他の課員も誰一人として席を立たない。寺島のただならぬ圧を感じて、お昼どころかトイレに行くのも我慢して朝から電話をかけ続けているのだ。
今井亜沙子だけは朝から外出している。数字を決めたことを報告する連絡を何度かよこしたのち、15時頃にオフィスに戻ってきた。
そしてついに募集入力時間を過ぎ、朝からの張り詰めた空気がようやく和らいだかと思った瞬間。
オフィスに寺島の怒声が響き渡った。
「篠原!ふざけんなよ!お前のせいで課の数字落としてんじゃねえか!」
周りの課が一体何事かとこちらを見ているのも気にせず、寺島は緋色に近い紅潮した顔で喚き散らしていた。
最終的に篠原だけが数字を大幅に落としたため、課の予算を達成できず他の課に埋めて貰う結果となったのだ。
ガンッという大きな音が鳴り響き、朝子は心臓が止まりそうになる。同時に、椅子の背もたれに何かが当たり、急に押されたような感触がした。
恐る恐る振り返ると、そこには椅子が無残に転がっている。2メートルほど離れた席にいる寺島が、篠原に向かって蹴り飛ばしたのだった。
「今井さんは予算オーバーしてやってくれてんだぞ!なのにお前のせいで数字落としてんだよっ!」
寺島は口の端に泡をため、唾を飛ばして叫ぶように言った。
「今井さんに謝れよ!土下座して謝れ!」
朝子は一体何が起きているのかわけがわからず、ただただ呆気に取られ、その場を見ていることしか出来なかった。
完全に追い込まれた人間の表情をしている篠原。怯えているのは側から見てもあきらかで、震えながら静かに立ち上がる。
そして近くにいる朝子にやっと聞こえるくらいのか細い声で「すみませんでした…」と言いながら、亜沙子に向かって土下座をした。
亜沙子はそんな篠原を腕を組みながら黙って見下ろしている。
その姿は、8年前に見た亜沙子と同一人物とは思えなかった。本店という場所が、彼女をここまで変えてしまったのだろうか。
彼女の表情は、土下座されて恐縮するどころか、そんなもんで許されると思うなとでも言いたげな顔だ。
ー予算落として土下座って嘘でしょ…?なんなの、この課。チームなんだからみんなで数字が出来るように協力すればいいじゃない…。
朝子は唇を噛み締めて、亜沙子をじっと見つめる。その視線に気づいた亜沙子と、ばっちり目があった。
すると彼女は、朝子の心の内を見透かしたかのように、鼻で笑うようにしてこんなことを言い放った。
「言っとくけど、ここ、中川さんがいたような小店じゃないの。これが“本店”よ。」
あれほど憧れていた本店は、華やかな世界とはほど遠い。どうやら凄いところに来てしまったみたいだ。
そしてこの日から、朝子と亜沙子の闘いが、幕を開けたのだった。
▶︎Next:4月18日 水曜更新予定
そこは数字をかけた、壮絶な闘いの場だった!次第に追い込まれていく課員たち。
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