舌先に葉巻の苦み。少しバニラのような香りもした気がする。私が飲んだマルガリータの甘さも彼に伝わってるのだろうか。
そんなことを考えていると、隼人の唇が耳元で動いた。
「キスできたじゃん、俺ら。」
聞きなれたはずの声が、妙に色っぽく聞こえる。
隼人が私の前で初めて「ずるい男」になった。早くなった動悸が恥ずかしくて、視線を泳がせると、彼の肩ごしに灰皿が目に入る。
葉巻の先端から立ち上る、か細く弱い煙。まるでスローモーションのように、静かに灰が落ちて舞う。
―いつか…後悔するかな…。
でも、今はこれでいい。自分にそう言い聞かせながら、隼人の肩に顔を埋めた。
◆
「じゃあ今日、翔太のお迎えよろしくね。」
「了解。怜子の帰りは何時?」
「今日はロケ、遅くなっちゃうな。夕食、冷蔵庫の中に作り置きしてあるから、適当に温めて食べてくれると助かるわ。」
午前3時。夫になった隼人は、平日毎朝この時間に出勤していく。今や朝のニュースのメインキャスターだ。そんな彼を見送った後、玄関に置いた写真たてが目に入る。
ウェディングドレスの私と隼人。この写真を撮ったのももう6年前で、私達は35歳になった。
私達は、あのキスの翌年にスイスの古城で式を挙げた。挙式の後のパーティには沢山の取材が入り、私たちカップルは一躍日本中の注目を集める夫婦になった。
結婚の翌年に生まれた息子の翔太は今年4歳になり、お受験の準備を始めている。
悔しさと、プライド、そして打算で結婚した私達ではあったけれど、結婚生活は驚く程上手く行った。
入籍の前日には「もし子供ができないとか、どちらかに好きな人ができたとかした時には、お互いに笑って別れよう」なんてことさえ話していたのに。
翔太が生まれ、守るべき存在が私達の絆を強くしたし、「結婚と出産」は、お互いのキャリアにも良い影響を与えた。
私は「雑誌やインスタで着たものが飛ぶように売れる」という、ママモデルとしてトップの地位を確立。
イクメンとしての肩書が足された隼人は、理想のアナウンサーの殿堂入り。最近では「フリーに転身」のウワサが流れる程、国民的な人気者になった。
常に、週刊誌に追われる私達を「パーフェクト・カップル」と呼ぶ人さえいる。
出産以来、私達に男女の関係は無い。けれど出会って15年以上経つ親友への信頼は絶対で、私は十分幸せだった。
そう、この日までは。
私もロケ出発まであと1時間。シャワーを浴びようと思った時、携帯が鳴った。隼人が忘れ物をしたのかと画面を見ると、私の所属事務所の社長からだった。
「もしもし」
出発時間の変更だろうか、と思いながら電話に出ると、いつもは明るい社長が出発前にごめんね、と沈んだ声で言って続けた。
「落ち着いて聞いてね。ご主人の記事が週刊誌に出るかも。女の子と撮られたみたい。」
その後、自分がどう返事したのか、よく覚えていない。そして…。
私達夫婦は、この時、まだ知らなかったのだ。常に「注目を集める存在」でいることの…本当の怖さ、を。
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パーフェクト・カップルに訪れた最初の試練。そして偽りの生活が始まっていく。
パーフェクト・カップル
誰もがインターネットやSNSで監視され、さらされてしまうこの時代。
特に有名人たちは、憧れの眼差しで注目される代わりに、些細な失敗でバッシングされ、その立場をほんの一瞬で失うこともある。
世間から「パーフェクトカップル」と呼ばれている隼人と怜子は、一挙一動が話題になり「理想の夫婦」ランキングの常連として、幸せに暮らしていたが…。
結婚6年目。「世間の目」に囚われ、「理想の夫婦」を演じ続ける「偽りのパーフェクトカップル」の行く末とは?
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