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カンカン…。窓の外で踏切の音がして、奈々は我に返る。
千駄ヶ谷駅から徒歩10分の奈々の部屋は、線路沿いで電車の音がうるさい。しかし専属ライターを務める女性誌の編集部がある水道橋に近くて便利なため、地元・浜松から上京して5年、ずっと住み続けている。
―いけない、支度しなくちゃ。
慌ててスマホ画面に表示された日付けを確認し、奈々は思わず「あっ」と声を漏らした。
4月10日。
なぜかいつまでも記憶から消えない、翔平の誕生日だ。
恋愛感情は脳波のまやかし?
「よく覚えてるわね…そんな、付き合ってもない男の誕生日なんて。」
お食事会までの時間潰しで入った、恵比寿の『エムハウス』で、奈々の話を聞いた同僚のさゆみは、アイラインとマスカラで2倍の大きさになった目を見開いた。
「私、今彼の誕生日すらひとりも覚えてないかも。」
「ひとりもって(笑)…そりゃ、5人も同時に付き合ってたら覚えてられないよね。」
さゆみには、彼氏のような男が5人いるらしい。
星付きレストランや高級旅館に連れて行ってくれる港区おじさん、話題の新店を教えてくれる港区おじさんジュニア、華やかなパーティーに誘ってくれる代理店勤務の男、マッチラウンジで出会ったという弁護士、三軒茶屋に住むさゆみが定宿にしている、六本木在住のフリーカメラマン…。
率直に言って、奈々はさゆみが何故5人もの男を手玉にとれるのか疑問なのだが、美人じゃないけどモテる女は、実在するらしい。
さゆみ曰く、「それぞれ違う部分を満たしてくれるから、ひとりには絞れない」のだと言う。しかしその5人の誰とも、結婚は考えていないらしい。
恋愛感情は生殖本能からくる脳波のまやかし、というのがさゆみの持論である。
だから恋愛と結婚は完全に別に捉え、結婚相手はまやかしに惑わされず、現実的に条件で選ぶべきだ、と常々主張している。
手鏡を取り出し熱心に化粧直しする彼女を、地球外生命体を眺めるように見つめていると、奈々の視線を感じたのだろうか、さゆみは抗議するように口を尖らせた。
「なぁに?そんな目して。奈々だって、優一さん、だっけ?名前どおり優しいだけの彼に満足してないから、他の男の夢を見たりするわけじゃない?」
「いや、そういうわけじゃ…」
否定してはみるものの、言いながら「そうかもしれない」と思う自分がいる。
翔平の夢を見たことは関係ないとしても、彼氏がいるにも関わらず、こうして今日、さゆみに誘われた食事会にオフショルダーで参戦しようとしている時点で、物足りている、と胸を張って言い切ることはできなかった。
奈々の彼、優一は、「普通にいい人」だ。
食品メーカーに勤める32歳。中肉中背で、ハンサムではないが大きく口を開けて笑う顔がちょっと可愛い。気の利いたことも言わないが失言もない、素敵ポイントもないが変な癖もない。
―私なんかには、優一がちょうどいい。
驕りか謙遜か微妙だが、奈々はそんな風に思っている。
華やかさにかける控えめな和顔、地元の国立大学を卒業して上京し、ライターで生計を立てる27歳。奈々は、「普通にいい人」の優一と同じように、東京に掃いて捨てるほどいる「普通の女」だから。
そうやって自分の客観的価値をわきまえてはいるが、時折、心の中で天使か悪魔かわからぬ声が聞こえる。
―そんな平凡な幸せで、満足なの?
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