トイレの個室で、自分の噂話を聞いてしまったことも、あの一度だけではない。
「華子ちゃんって、伊原さんの前だと態度が変わるんだよ」
「でも伊原さんの前の彼女はモデルだから、華子ちゃんなんてちょっと気まぐれで誘っただけじゃないの?」
「うん、絶対そうだよ。なのに華子ちゃん、勘違いしちゃってかわいそ~」
普段は平然と挨拶を交わしている同僚たちが、裏ではコソコソ悪口を言っていることに、当初は愕然とした。
勝手に想像を膨らませ、華子の悪口を言うことで仲間意識を強める彼女たち。
―せめて伊原さんが良い人で、彼と付き合ってたら、まだ救われるのに……。
あの最悪なデートを思い出して、華子は大きく息を吐いた。
―ほんと、いい迷惑。
自分を誘ってきた伊原を恨まずにはいられない。
それでもどうにか自分を保つため、気分が落ち込んだ日は、帰宅する山手線の中で『NOREN NOREN』を見るようにした。上質な物だけが集められたこの世界観に触れると、嫌な日常を忘れてなんだか心が軽くなる気がするのだ。華子が好きな、伊勢丹新宿店の3階の空気が、このサイトには詰まっている。
自宅に帰ると、1杯のワインを飲みながらサイト内の「PEEK A NOREN」の記事を読む。ただの現実逃避かもしれないが、小さな楽しみを見つけてやり過ごすしかなかった。
良い物に触れていれば自然と目も養われ、広報の仕事にも、間接的でも役立つ日がくると信じている。孤立する中で、仕事を頑張ろうという意識は高まる一方だった。
そう頻繁に買い物をするわけではないが、AD時代に買い物しなかった分を取り戻すように、上質なものを少しずつ買い揃えていくのが楽しいのだ。
女たちはひた隠しにするが、確実に内在する感情
ある土曜の昼に待ち合わせのカフェへ行くと、すでに菜々香は待っていた。
「ごめんね、お待たせ~」
「うん、大丈夫だよ。あれ、そのバッグ!」
さすが菜々香だ。先週『NOREN NOREN』で買ったばかりの『LOEWE』のバッグを見逃さなかった。休日のちょっとしたお出かけに使えるようなバッグを持っていなかった華子が、つい先日買ったばかりのものだ。
「華子って、この数カ月で見違えるほど変わったよね。だいぶ華やかになってきた」
「そうかな。会社では女の嫉妬がドロドロで、ADの時より精神的には辛いかも……」
華子が弱音を吐くと、「嫉妬される所までいったんだから、本当にすごい進歩だよ」と笑顔を向けられた。
「なにそれ~」と笑いながら、華子はふと、会社のラウンジで越野部長に言われた言葉を思い出した。
―そういえば……。
「何かを差し出してでも、女からの嫉妬を買う」と、越野部長は言った。あの時は、初めて名前を呼ばれたことが嬉しくて、あまり気にしていなかったが、部長が言いたかったことが今になってようやく、わかった気がした。
―嫉妬されることを、誇らしく思えばいいの……?
女たちはひた隠しにするが、確実に内在するネガティブな感情。触れられるとヒリヒリして、目を背けたくても背けられず、がんじがらめにされてしまう、ある部分。
そこを刺激できるのは、ごく一部の女だけだ。そして、女が嫉妬心に囚われるのは、相手より自分が劣っていると感じた時―。
華子は、菜々香がいることも忘れてしばらく黙った後、右の口角だけをゆっくりと持ちあげた。
「なに、華子。笑ってるの?」
菜々香が驚いたような顔をした。それから顔を覗きこまれるようにして聞かれたが、その言葉は華子の耳にぼんやりと響いただけだった。