遅い朝食を終えて、いつものように『Huit』へコーヒーを飲みに行くつもりでいた時だ。
涼が急にソファから降りて香織に向かって土下座したのだ。その姿を見て驚く香織に構わず、彼はひたすら謝り続けた。
無印良品で買った白いラグに額を擦り付けて何度も謝った。最初はびっくりしていた香織だが、何も理由を言わない彼に「訳がわからない」と言って怒ると涼はしばらく無言になり、沈黙の後口を開いた。
「ある人を妊娠させてしまいました……。」
土下座したまま喋るから涼の声はこもっていたが、その言葉は香織の脳内に矢のように突き刺さった。
それから何を話したのか、香織はほとんど覚えていない。おそらく、泣きながら思いつく限りの言葉で罵り、手当たり次第に物を投げつけ、投げるものがなくなると土下座したままの彼の背中を何度も叩いたはずだ。
羽織っていたグレーのパーカーを引っ張り何とか顔を上げさせると彼は、ぐっと奥歯を噛んでいた。
土下座して彼の髪は寝癖がついたように少し乱れて子どものようになっている。“きれいなジャイアン”はとても悲しい顔をしていた。
忙しい男ほど、上手に浮気するものだ。香織は、涼に限っては浮気なんかしないと心の底から信じていたが、それはただの幻想だったのかもしれない。
妊娠させた相手は、転職先で涼が配属された部署にいた29歳の派遣社員。不慣れな涼を優しくサポートし、夜遅くまで業務を手伝ってくれた後にお礼を兼ねて何度か食事に連れて行ったそうだ。
最初は本当に何の下心もなかった。ただ、向こうから誘ってくるようになり、ついに2回だけ関係を持ってしまったのだと彼は言った。
相手の女性は産む気でいた。相手が同じ会社の人間なら、涼が責任を取る以外に道はなかった。向こうは最初からそのつもりで涼に優しくしたのではないかと、香りは全てを疑った。
やっと手に入れたと思った幸せは、手ですくった水のように、わずかな指の隙間からポタポタとこぼれ落ちて行く。両手を合わせどんなに丁寧にすくっても、水を掌に留めておくことはできないことを知り、香織は悲しみに打ちひしがれた。
◆
これが香織の、恵比寿から続いた彼との、最高で最低の恋の思い出だ。その後彼は、相手の女性から脅されるように入籍し、数年後には2人目も産まれたらしい。彼が現在幸せなのか香織の知る所ではないが、恵比寿や中目黒に行くと、33歳になった今でも必ず涼との思い出が蘇る。
恵比寿の東口交差点の坂道を駅へ向かって歩く時、中目黒の山手通りと駒沢通りの交差点で信号待ちをしている時、至る所で彼との思い出が波のように押し寄せてきたことは何度もある。
気の強い香織はその度に、「絶対東京で、幸せになるんだ」と自分に言い聞かせた。






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