純也の家に着くと、いつものように温かく迎え入れてくれた。思っていた態度と違って、少し面食らう。もう何年も通っている部屋だが、どこに座ったらいいかわからず、リビングをうろついてしまう。
「どうしたの(笑)? そこに座ってて。なんか飲む?」
「……お、お水をください。」
思わず、敬語で答えてしまった。緊張で、喉がカラカラだ。 「おかえり。早かったね。」
「話ってなに?」
居ても立ってもいられず、自分から話を切り出してしまった。「あぁ……」と返事をする純也の表情が一瞬、こわばったような気がする。重苦しい空気に耐えて、後に続く言葉を待つ。
「……夏から、シンガポール支社に転勤が決まったんだ。向こうで新規のプロジェクトが立ち上がって、そこのリーダーを任されることになった。」
ポツリ、ポツリと吐き出す言葉は、まるで口角に鉛をつけているように重々しい。
本当に?よかったじゃない!…と言いかけて、純也の転勤は二人の関係に影響をもたらしかねない深刻な事態だと気づいて聞き直す。
「任期はどれくらいなの?」
1、2年なら、何の障害にもならないはず。僅かな希望にすがる想いだ。
「短くて5年かな。……ただ俺としては、ずっとやりたかった仕事だから、できるだけ長くいたいと思ってる。」
5年は長い。しかもできるだけ長くいたいなんて、 ひどく突き放された気分だ。
「麻美にもついてきてほしい。夢だった職業に就いたばかりで、困らせることはよくわかっている。だけど……。」
そう言うと、純也はふーっと息を吐き、姿勢を正す。話の「核心」は、すぐそこだと悟った。
「麻美とこれから先、ずっと一緒にいたい。僕と結婚してください。」
肩を少し震わせて語る純也からは、鬼気迫るものを感じた。なんとか考えを明確にしようと務めるが、頭が一切の思考を拒否する。
大好きだった純也からのプロポーズ。期待したことが一度もないといえば嘘になる。でも、仕事がようやく面白くなりはじめたこのタイミングで訪れるなんて……人生とは、皮肉なものだ。
「ありがとう。でも、大事なことだから、返事は少し待ってほしい。ちゃんと考えるから。」
それしか言えなかった。これが、今出せる精一杯の答えだった。
「分かった。ゆっくり考えて。」
優しく答える純也の顔が、怖くて見れない。