三友商事
科学薬品部
アジアマーケティング課
佐野 誠
ランチ後、2015年に世界遺産にも登録された植物園『ボタニック・ガーデン』に向かい、道中Facebookで先ほどの男性の名前を検索する。同姓同名でシンガポール在住がひとり。この人だ。アイコンは似顔絵で、カバー写真は東南アジアっぽい熱帯雨林。それ以外は見ることができない。
一瞬しか見なかったけれど、端正な顔立ちのすらっとした人で、似顔絵よりも実物の方がよっぽど格好いい。ナンパ慣れしているのか、なんの躊躇もなく自然と名刺を置いていった。
そんなことをぼんやり考えながら、園内を歩いて回った。熱帯の鮮やかな花に溢れていて、気持ちが自然と癒やされていった。特に6万本1000種類もの蘭が植えられた世界最大規模の蘭園は夢の世界のようで、写真の撮りどころもたくさん。やっぱり真希と一緒にきて、ふたりの写真をSNSにアップしたかったな。
植物園を後にし、近くにある『PS.cafe』でお茶をする。ここは、東京にはまずないロケーションで開放感が凄い。テラス席は森の中でお茶をしている気分になれて、まだお昼だけれどついビールを飲んでしまった。羽田にいた時よりも気分は少しよくなっていた。植物の力は偉大だ。

『PS.cafe』
カフェ使いから、本格的なディナーまで幅広い用途で人気の店。近隣は高級住宅街で、有閑マダムたちのブランチもよく見受けられる。ボリューム満点のハンバーガーやフィッシュ&チップスがおすすめ
今晩何を食べようかと考え、思い出したのが真希との会話だった。
「やっぱりシンガポールに行ったらチリクラブ食べたいよねー!」
雑誌のグルメ担当でもある私は真希に提案して、彼女もノリ気になっていたのだ。殻ごとの大きな蟹に甘辛いソースが惜しげもなくかけられた逸品を、存分に堪能したい。
でも、チリクラブはさすがにひとりでは食べられない。とはいえシンガポールに来てチリクラブを食べないなんて寂しすぎる! どうしても食べたい……と考えていたときに、先ほどの男性のことがふと頭に浮かんだ。
「もしも何か困ったことがあったら」
と言っていたけど、私のこのシチュエーションって十分に“困ったこと”ではないか!?
いま、この国で失うものは何もない。こんな時くらい、いいでしょ。会ったその日であるけれど、彼の会社にメールを送る。
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佐野さま
突然のメール、失礼します。
私、さきほどホーカーでお会いした日本人女性の観光客です。
いまさらですが、はじめまして。小西梨花といいます。
シンガポールは緑がとても多くて気持ちがいいですね。
いまは『ボタニック・ガーデン』の隣にあるカフェにいるところです。
実は、今回は友人とふたりでシンガポールを旅行する予定だったのですが、
彼女が体調を崩し来られなくなってしまったんです。
今日の夜、シンガポールでひとり何を食べようかと考えていたのですが、
もし「これは!」というおすすめがあれば教えてください。
あと図々しいお願いではあるのですが、
私どうしてもチリクラブを食べてみたくて、
もしも今週の夜で空いている日があれば一緒にいかがでしょうか?
お返事もらえたら嬉しいです。
小西梨花(090-xxxx-xxxx)
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チリクラブが高額ということが気になったけれど、ちゃんと払うとそのとき言えばいいだろう。Gmailを閉じ、『PS.cafe』を後にする。