「ごめん。少しだけ」
亮さんは私に背を向け1歩だけ遠ざかると、小さな声で電話に出た。
「はい。……今?いや、今日はもう」
いつもより低い声だった。
電話の相手が何を言っているのかは聞こえない。ただ、亮さんの肩がわずかに強張るのが分かった。
「……分かった。今から行く」
通話を切って戻ってきた亮さんは、さっきまでとは全く違う冷たい表情をしていた。
「悪い。ちょっと寄らなきゃいけなくなった」
「会社ですか?」
「都立大の実家。父のところ。仕事の話」
詳しく聞いてほしくなさそうな言い方だった。
着信の名前は、たった一文字。『父』と表示されていた。
亮さんが父親の話をするのを、私はほとんど聞いたことがない。
日本を代表する大企業で役員をしていること。
亮さんと同じく数字に強いこと。
そして、息子が商社とスタートアップを掛け持ちしている状態を快く思っていないこと。
…知っているのは、その程度だ。
以前も、食事の途中で父親から呼び出され、亮さんが席を立ったことがある。
その時も私は「大丈夫」と笑って見送った。家族の用事なら仕方ないと、本当に思ったから。
けれど電話を受ける亮さんの顔は、仕事のトラブルに向き合う時とも違う。反論する前から、従うことを諦めているように見えた。
もう少しだけ、一緒にいたい。せめて、今の話の続きを少しだけしてからにしない?
さっきの私は、会いたかったと言えた。だから次も言えるはずだった。
でも、亮さんの指は、もうアプリでタクシーを手配している。
父親から呼ばれて、こんな表情を浮かべている人を引き止めるのは、恋人のわがままでは済まない気がした。
「そうなんですね。気をつけてください」
耳ざわりのいい言葉は、やっぱり私の唇にもよく馴染む。
亮さんは何か言いたそうに私を見たけれど、結局告げられたのは、「資料、無理に全部読まなくていいから」というセリフだった。
「はい。じゃあ…おやすみなさい」
「あと、家に着いたら連絡する」
「別に、そこまでしなくても大丈夫」
なるべく明るいトーンで伝えてみたつもりだけれど、亮さんは譲らなかった。
「する。足りないってわかったから」
その一言に、少しだけ救われる。
「亮さん」
呼び止めると、すぐに振り返ってくれた。
「逆に疲れちゃってない?あの…顔だけ見にきて」
亮さんは一瞬きょとんとして、それから眉を寄せた。
「そんなわけないでしょ」
「…はい。ごめん」
エレベーターの扉が閉まる直前、亮さんは私を見て「おやすみ」と言った。
こういう時に、キスのひとつでもくれる人だったらいいのに。
そう思いながら、でも亮さんはそういう人ではないから、私も同じ言葉を返した。
部屋に入り、白い紙袋の中身をテーブルへ並べる。どの資料にも、亮さんの手書きの付箋が貼ってあった。
<この数字は国内比較に使えそう>
<真理恵なら、ここ気にすると思う>
<公募の審査員、たぶんこの論点を見る>
会えなかった時間に、亮さんが私のことを考えていた痕跡だった。
嬉しい。嬉しい。嬉しい。
それから…すごく悔しい。
どうしてこの人は、恋人として欲しい言葉を、仕事の資料に変えて渡してくるのだろう。
資料をめくると、一枚の名刺が落ちた。シンガポールの調査会社のものだった。
女性の名前だったけれど、裏には亮さんの字で「市場データ依頼先」と書かれている。
こんなことまで気にする自分自身に呆れて、名刺を封筒へ戻した。
約束どおり亮さんからのLINEが届いたのは、午前0時36分のことだった。
『父のところに着いたよ。今日はごめん。このあと連絡取れないかもしれないけど、少しだけでも会えてよかった』
私は少し迷ってから、初めて模範解答ではない返事を打った。
『私も会えて嬉しかったよ。次は急に来る前に連絡してね』
すぐに既読がつく。
『了解。あと、店の候補送る』
続いて、レストランのURLが三つ届いた。どれももともと「行こう」と約束していたあの店より、予約が取りにくい店ばかりだ。
「もう。お店のランクとかじゃないって言ってるのに」
笑いながら、でも少しだけ泣きそうになる。亮さんなりに近づこうとしてくれている気持ちが嬉しくて、今日のやりとりをすべて、心の中に大切にしまい込もうとする。
その時、テーブルの上でスマホが震える音がした。
― えっ?
私のスマホは今、この手の中にある。
視線をやった先にあったのは、白い紙袋だ。その中に――覚えのない黒い端末が入っていた。
― これ、亮さんの仕事用の?
資料と一緒に袋に入れてしまっていたのだろう。返さなければと思ってとっさに手に取った瞬間、ロック画面に通知が浮かんだ。
今度の差出人は、“父”ではない。“エリカ”だった。
― …三文字だ。
真っ白になった頭の中に、くだらない感想が浮かぶ。
けれど、そのくだらない感想を持ってしても、連続で届くメッセージから心を守り続けることは難しそうだった。
ロック画面に次々と浮かび上がる、“エリカ”からのメッセージ。
『やっぱりまだ直接話したいな』
『お願い、もうちょっとだけ戻ってきて?』
『亮じゃなきゃダメなの』
見るべきではないと分かっているのに、スマホを伏せることができなかった。
▶前回:忙しい彼の短文LINE。「会いたい」の一言を飲み込む31歳女の葛藤
▶1話目はこちら:ドタキャンに深夜の呼び出し…。33歳商社マン彼氏との恋に未来はありますか?
▶Next:10月27日 火曜更新予定
仕事用スマホに届いた“エリカ”からの通知。返却を口実に訪れたイベントで、そのエリカと対面する…。







この記事へのコメント