深夜1時のペンディング Vol.3

忙しい彼と会えるのは、いつも突然で短時間。ガマンが限界に達した女が思わず本音をぶつけたら…

有栖川匠

「ごめん。少しだけ」

亮さんは私に背を向け1歩だけ遠ざかると、小さな声で電話に出た。

「はい。……今?いや、今日はもう」

いつもより低い声だった。

電話の相手が何を言っているのかは聞こえない。ただ、亮さんの肩がわずかに強張るのが分かった。

「……分かった。今から行く」

通話を切って戻ってきた亮さんは、さっきまでとは全く違う冷たい表情をしていた。

「悪い。ちょっと寄らなきゃいけなくなった」

「会社ですか?」

「都立大の実家。父のところ。仕事の話」

詳しく聞いてほしくなさそうな言い方だった。


着信の名前は、たった一文字。『父』と表示されていた。

亮さんが父親の話をするのを、私はほとんど聞いたことがない。

日本を代表する大企業で役員をしていること。

亮さんと同じく数字に強いこと。

そして、息子が商社とスタートアップを掛け持ちしている状態を快く思っていないこと。

…知っているのは、その程度だ。

以前も、食事の途中で父親から呼び出され、亮さんが席を立ったことがある。

その時も私は「大丈夫」と笑って見送った。家族の用事なら仕方ないと、本当に思ったから。

けれど電話を受ける亮さんの顔は、仕事のトラブルに向き合う時とも違う。反論する前から、従うことを諦めているように見えた。

もう少しだけ、一緒にいたい。せめて、今の話の続きを少しだけしてからにしない?

さっきの私は、会いたかったと言えた。だから次も言えるはずだった。

でも、亮さんの指は、もうアプリでタクシーを手配している。

父親から呼ばれて、こんな表情を浮かべている人を引き止めるのは、恋人のわがままでは済まない気がした。

「そうなんですね。気をつけてください」

耳ざわりのいい言葉は、やっぱり私の唇にもよく馴染む。

亮さんは何か言いたそうに私を見たけれど、結局告げられたのは、「資料、無理に全部読まなくていいから」というセリフだった。

「はい。じゃあ…おやすみなさい」

「あと、家に着いたら連絡する」

「別に、そこまでしなくても大丈夫」

なるべく明るいトーンで伝えてみたつもりだけれど、亮さんは譲らなかった。

「する。足りないってわかったから」

その一言に、少しだけ救われる。

「亮さん」

呼び止めると、すぐに振り返ってくれた。

「逆に疲れちゃってない?あの…顔だけ見にきて」

亮さんは一瞬きょとんとして、それから眉を寄せた。

「そんなわけないでしょ」

「…はい。ごめん」

エレベーターの扉が閉まる直前、亮さんは私を見て「おやすみ」と言った。

こういう時に、キスのひとつでもくれる人だったらいいのに。

そう思いながら、でも亮さんはそういう人ではないから、私も同じ言葉を返した。

部屋に入り、白い紙袋の中身をテーブルへ並べる。どの資料にも、亮さんの手書きの付箋が貼ってあった。

<この数字は国内比較に使えそう>

<真理恵なら、ここ気にすると思う>

<公募の審査員、たぶんこの論点を見る>

会えなかった時間に、亮さんが私のことを考えていた痕跡だった。

嬉しい。嬉しい。嬉しい。

それから…すごく悔しい。

どうしてこの人は、恋人として欲しい言葉を、仕事の資料に変えて渡してくるのだろう。

資料をめくると、一枚の名刺が落ちた。シンガポールの調査会社のものだった。

女性の名前だったけれど、裏には亮さんの字で「市場データ依頼先」と書かれている。

こんなことまで気にする自分自身に呆れて、名刺を封筒へ戻した。

約束どおり亮さんからのLINEが届いたのは、午前0時36分のことだった。


『父のところに着いたよ。今日はごめん。このあと連絡取れないかもしれないけど、少しだけでも会えてよかった』

私は少し迷ってから、初めて模範解答ではない返事を打った。

『私も会えて嬉しかったよ。次は急に来る前に連絡してね』

すぐに既読がつく。

『了解。あと、店の候補送る』

続いて、レストランのURLが三つ届いた。どれももともと「行こう」と約束していたあの店より、予約が取りにくい店ばかりだ。

「もう。お店のランクとかじゃないって言ってるのに」

笑いながら、でも少しだけ泣きそうになる。亮さんなりに近づこうとしてくれている気持ちが嬉しくて、今日のやりとりをすべて、心の中に大切にしまい込もうとする。

その時、テーブルの上でスマホが震える音がした。

― えっ?

私のスマホは今、この手の中にある。

視線をやった先にあったのは、白い紙袋だ。その中に――覚えのない黒い端末が入っていた。

― これ、亮さんの仕事用の?

資料と一緒に袋に入れてしまっていたのだろう。返さなければと思ってとっさに手に取った瞬間、ロック画面に通知が浮かんだ。

今度の差出人は、“父”ではない。“エリカ”だった。

― …三文字だ。

真っ白になった頭の中に、くだらない感想が浮かぶ。

けれど、そのくだらない感想を持ってしても、連続で届くメッセージから心を守り続けることは難しそうだった。

ロック画面に次々と浮かび上がる、“エリカ”からのメッセージ。

『やっぱりまだ直接話したいな』

『お願い、もうちょっとだけ戻ってきて?』

『亮じゃなきゃダメなの』

見るべきではないと分かっているのに、スマホを伏せることができなかった。


▶前回:忙しい彼の短文LINE。「会いたい」の一言を飲み込む31歳女の葛藤

▶1話目はこちら:ドタキャンに深夜の呼び出し…。33歳商社マン彼氏との恋に未来はありますか?

▶Next:10月27日 火曜更新予定
仕事用スマホに届いた“エリカ”からの通知。返却を口実に訪れたイベントで、そのエリカと対面する…。

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No Name
エリカ、多分大丈夫だよ
2026/10/20 07:290

深夜1時のペンディング

有栖川匠

恋愛には、待つことが付き物だ。

会える日を待つ。返事を待つ。言葉にしてくれる瞬間を待つ。

けれど、待たされ続ける時間は、愛ではなく不安を育てる。

相手を尊重することと、物わかりのいい女でいることは、とても間違えやすいから

──恋人を遠くに感じる深夜1時の恵比寿の空は、いつもより暗くなる。

これは、保留ばかりの恋と人生をもう一度動かし始めるための、恋愛のリスケの物語。

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