「え…?これって」
白い紙袋の中身は、シンガポール土産のTWGの紅茶ではなく、海外の調査会社のレポートだった。
それから、ウェルビーイング家電の市場データに、競合サービスの利用者調査。私が受けようとしている社内公募の過去資料までファイルされている。
一度だけ、酔った勢いで私は亮さんに話したことがある。
次の社内公募に挑戦したい。でも、自分の企画がまた“社内で通しやすいだけ”のものに見えるのが怖い、と。
「向こうで会った人に頼んだ。公募の締め切り近いでしょ」
「ありがとうございます」
口から出たのは、仕事のメールみたいな言葉だった。
「どういたしまして」
冗談だと思ったのか、口の端に笑みを浮かべながら、亮さんもわざと他人行儀に返す。
― 公募の日付。私、すっかり忘れかけてた。
自分のことだというのに、亮さんがいつ帰るのかソワソワしていて、すっかり頭から抜け落ちていたことが恥ずかしい。
一瞬、二人の間に沈黙が落ちた。人感センサーが切れ、玄関の照明が消える。
私が一歩動くと、白い光がまた点いた。ついたり消えたりする明かりまで、今の落ち着かない私の気持ちみたいだと思った。
「亮さん、あの」
「うん」
「レストラン、キャンセルしました」
「ごめん。キャンセル料、すぐ送る」
「いえ、あの。お金の話じゃなくて」
初めて、亮さんの言葉を遮った。自分の声が思ったより強く響き、逃げたくなる。でも亮さんは急かさず、続きを待っていた。
― 楽しみにしてた。ワンピースまで買ってた。寂しかった。ただ可愛くそう言えばいいんだよ。
そう自分に言い聞かせる。
だけど…どうしても、父の黒い手帳が頭をよぎるのだ。
土曜日の欄に引かれた二本の線と、その隣に書かれた私の名前。
忙しい人を引き止めてはいけない。私のために予定を変えてほしいなんて、言ってはいけない。
「真理恵?」
古い記憶が、喉を締めつける。亮さんが私の顔を覗き込む。
「……会いたかった」
そうしてようやく口から出たのは、まるで小さな子どもみたいな言葉だった。
「レストランに行きたかったというより、亮さんに会いたかった。なのに大丈夫って言って、あとから勝手に傷ついて。写真が届いて嬉しかったのに、写真だけなんだって思って」
一度こぼれた言葉は、止まらなかった。
「いつ決まったのかも、誰と行くのかも、帰りがいつなのかも分からなくて。聞けばいいって分かってる。でも…」
何も言わずに耳を傾けてくれる亮さんの姿が、ぐにゃりと歪んだ。いやだ。こんなことで絶対に、涙なんて溢したくない。だってそんなの…あまりにも重すぎる。
だけど、どうしようもないのだ。亮さんのこととなると、いつもの私ではいられなくなる。嫌になるほど、感情優先の愚かな人間になってしまう。
どうにかこうにか潤む視界をごまかしながらも、私の口からは涙の代わりに湿度の高いワガママがこぼれ落ちてしまう。
「でも…亮さん、いつだって忙しいから。そういうことを聞いちゃだめなんだって、我慢してるんだよ」
亮さんはしばらく黙っていた。
嫌われたかもしれない。面倒だと思われたかもしれない。亮さんの方を見られないまま、深夜の廊下に心臓の音が鳴り響きそうだった。
だけど…。
次の瞬間。亮さんが小さなため息と一緒にこぼしたのは、予想していなかった言葉だ。
「俺も会いたかったよ」
「……え?」
「だから来た。空港から一度会社に寄って、連絡するのも忘れて、急いで合鍵で入ってきて…そんで、いまここ」
会いたいと思っていたのは、私だけではなかった。
当たり前のことなのかもしれないけれど、言葉にしてもらうことでようやく理解できはじめる。心に立ち込めていた黒い霧が、少しずつ晴れていく。
「顔だけ見たら帰るつもりだった」と亮さんは続けた。
「顔だけ?」
「明日の朝、役員会なんだ」
シンガポール出張帰りで、しかも翌日朝から仕事を抱えた人が、深夜を私のために使ってくれている。
嬉しいと思う一方で、私たちにはいつも余った時間しかないようにも感じて――その矛盾をうまく言葉にできず、私は紙袋を抱き直した。
「連絡くれたら、もう少し長く会えたかもしれないのに」
「ごめん。移動中は寝てた。着いたら顔を見て謝ろうと思ってた。向こうから送った写真は、何も送らないよりいいかと思ったけど…足りなかったね」
言い訳ではなく、確認するような声だった。
「足りないよ」
思い切って言うと、亮さんは困ったように笑った。
「分かった。次からは、もう少しちゃんと送る」
「量の問題じゃないよ」
「難しいな」
「そういうところ…」
今度は私も笑った。胸にたまっていたものは、全てじゃないけれど、格段に軽くなっている。
「あの店、今度絶対行こう。真理恵が着るはずだった服も見たい」
ワンピースのことは話していない。美緒が言ったのだろうかと一瞬疑ったが、私の顔を見て想像しただけらしい。
「勝手に服まで決めないでよ」
「じゃあ、何を着るかは任せる」
亮さんが私の頭に軽く触れた、その時だった。亮さんのコートのポケットで、スマホが鳴った。
「ちょっとごめん」
こういう時、電話を後回しにしないところが亮さんらしい。
― 本当に忙しいんだな…。やっぱり、顔見に来てくれただけでも感謝しなくちゃ。
そう自分に言い聞かせながら、やっぱり少しでも上がってもらおうと思って玄関のドアを大きく開く。
だけど――。
硬い表情で画面を見つめたまま、亮さんは一向に電話に出ようとしない。
確認しようと思ったわけじゃないけど、目の端に飛び込んできた着信の相手は…思いもよらない人物だった。







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