TOUGH COOKIES Vol.79

「離婚してください」20年連れ添った妻の決意。やり直したい夫が知らなかった“本当の理由”

SUMI

大輝はこられなかった。

宿を出る直前、他の仕事――キー局の大型ドラマに関する緊急のオンライン打ち合わせが入ったのだ。「残念ですが、お二人で行ってきてください」と頭を下げた彼に「忙しくなるのはいいことだ」と崇が言ったけれど、その通りだとキョウコも思う。

昨日は名優の小林に認められ、今日は最終話の構成で崇に選ばれた。大輝の才能はこれからどこまでも伸びていくだろう。

― もう、私が心配する必要はない。

「あ、そろそろいいと思うよ」

几帳面にもタイマーをかけていたらしい崇に促されて釜の蓋を開けると、甘辛い出汁と冠地どりの香ばしい湯気が一気に立ち上り、空気を白く染めた。


艶やかに炊き上がった白米の上には、飴色に煮含められた地鶏とごぼう、椎茸がぎっしりと敷き詰められ、おこげの芳しい匂いが微かに鼻腔をくすぐる。

添えられたしゃもじを取り、底から静かにご飯を切るように混ぜると、綺麗に焼き色のついたおこげが返った。茶碗によそい、まだ湯気をまとうそれらを口にすると、ふっくらとした米粒に、冠地どりの旨味がしっかりと染み込んでいる。

「…おいしい」

思わず声がもれたキョウコに、「よかった」と、崇が心からホッとしたように笑った。

ひと口、ひと口、胃の奥に温かい熱が落ちていくたび、胸のつかえが取れていくような不思議な感覚があった。脚本の目途もついたからなのか――全てが適切なエンディングへと向かい始めたような解放感。

― 話すなら今かもしれない。

最後のひと口を食べ終えると、キョウコは崇を見つめた。崇の顔が歪む。何かを悟ったように。「オレは白玉団子を頼みたいけど、一緒に食べる?」と大げさにはずむ声で、メニューを開いた。キョウコが首を横に振っても、崇は注文をやめようとはしなかった。

「和菓子、得意じゃないでしょ?」

崇は力なく笑って、懇願するように続けた。

「東京に戻ったら、2人で話す時間を作って欲しいんだ」
「話なら、今ここで」

窓の外に広がる圧倒される程にのどかな緑とは不釣り合いな話題を、崇の話を待たずに、キョウコから切り出す。

「この作品が出来上がったら、今度こそ――絶対に離婚届を出したいの」

他に客は1組だけ。食事に飽きた3歳くらいの男の子を、若い夫婦があの手この手でなだめながら食べさせている。

「離婚なんてしない」
「…」
「何度言われても、オレは別れない」
「…」
「愛してるから。本当に愛してるから、どんなに時間がかかっても…もう一度やり直したいんだ」

このやりとりをもう5年近く続けている。大輝と生きていくと決めて、好きな人ができたからと告げても、「オレが一番じゃなくても構わない」と拒まれ続けてきた。それでもなぜか――大輝と別れた頃からは、皮肉にも少しずつ、態度を軟化させてくれているように見えていたのに。

「離婚、考えてもいいって言ってくれてなかったっけ?」
「…」

唇をかみ黙りこんだ崇が息苦しくて、思わずため息が漏れる。夫婦で契約していた仕事が終わるまでは、などのしがらみで、事務所から懇願され離婚を思いとどまった時もあった。けれどキョウコは今度こそ本気だった。

「裁判をしてでも別れたい。だから…お願いします」

崇の顔が、痛みをこらえるように歪んだ。

「あいつのせいか?」

低く、絞り出すような声だった。

「大輝とやり直すために、オレを捨てるのか」

― やっぱり……知ってたのね。

キョウコは驚かなかった。崇はクリエーターとしては珍しくビジネスの手腕にもたけている。不都合が起こった時に、ただ手をこまねく人ではないのだ。

おそらく興信所を使ったのだろう。ならばきっと全てを把握している。きっと別れた理由も。それなのにあえて――この仕事を3人で、と仕組むなんて。

― どうかしてる。崇も、その仕事を受けた私も。

乾いた風が胸を吹き抜けたかのように、笑みがこみ上げる。

「…何が、おかしい?」
「友坂くんとよりを戻すことなんて、絶対にないわ」
「ウソだ。さっきだって、君がアイツを見る目は…」
「絶対にない。でもどうしても気になるなら、長坂さんに聞いてみて」

崇の一夜の過ちの相手。夫婦の亀裂のきっかけになった名前に崇が目を見開く。

「なんで、彼女に…?」

キョウコは穏やかに崇を見つめた。

「崇さん。あなたと過ごした20年近くの日々には、本当に感謝してる。あなたがいなければ今の私はいないし、離婚の原因はむしろ私の方にあるの。あなたじゃない人を愛してしまった私が悪い」

「…キョウコ…!」

声を荒らげた崇に、はしゃいでいた子どもの声が止まる。店内の視線が自分たちに注がれているであろうことを気にせず、キョウコは続けた。

「私は何もいらないし、むしろいくらでも払うわ。事務所の権利も、慰謝料も、あなたの望むままに」
「いやだ。裁判になったって、オレは……」

崇の目に涙が浮かぶ。涙を見るのは結婚式以来だと思いながら、キョウコの決意は少しも揺らがなかった。

「たとえ何年かかったとしても、私の意志は変わらない。だから離婚してください」


▶前回:「なぜ別れないといけなかった?」元恋人に数年後に直球で尋ねたら…

▶1話目はこちら:「割り切った関係でいい」そう思っていたが、別れ際に寂しくなる27歳女の憂鬱

▶Next:9月15日 火曜更新予定

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この記事へのコメント

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No Name
離婚するしないは夫婦の問題だから、大輝の才能潰すとかそんなのはもう止めてくれ。
2026/09/08 06:0910
No Name
愛とか恋とか嫉妬や復讐、ともすると
薄っぺらでありがちなものになりそう
ですが、これ程鮮やかなストーリーに
編めるんですね。
しかも極上のエンタメ要素を散りばめ
て… 恐ろしい才能。
2026/09/08 12:453

TOUGH COOKIES

SUMI

港区・西麻布で密かにウワサになっているBARがある。
その名も“TOUGH COOKIES(タフクッキーズ)”。

女性客しか入れず、看板もない、アクセス方法も明かされていないナゾ多き店だが

その店にたどり着くことができた女性は、“人生を変えることができる”のだという。

心が壊れてしまいそうな夜。
踏み出す勇気が欲しい夜。

そんな夜には、ぜひ
BAR TOUGH COOKIESへ。

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