TOUGH COOKIES Vol.79

「離婚してください」20年連れ添った妻の決意。やり直したい夫が知らなかった“本当の理由”

SUMI

喉ごと固まったかのように崇が言葉を失った。その気まずい沈黙を、小林の短い笑い声が破る。

「役ではなくオレにしか見えない、ね。言いたい放題言われちゃったなぁ」

芝居のために鍛えられた、小林の良く通る声が場をもう一度凍らせる。大輝の表情だけがただ凪いだ水面のように穏やかで、崇はそれに苛立った。

「オッケ、じゃあ友坂くんが書いた台詞のまま、もう一回やってみるよ。さっきのオレのアドリブの方と見比べて、監督が良いと思った方を使ってください」

決断を委ねてきた小林の表情は晴れやかでワクワクしているように見えた。カメラの前に戻ろうとしたその背に、大輝が頭を下げて感謝を告げる。すると小林は立ち止まり、「友坂くんてさ」と振り返った。


「最高にイケメンでムカつくな」
「ありがとうございます」
「そこでお礼とか言えちゃうマインドが、さらにムカつくけど」
「すみません」

「全く悪いと思ってないでしょ」と笑って、小林は大輝に歩み寄った。

「オレが言ってんのは、ルックスのことじゃないよ。ここが、ってこと」

大輝の胸をトントンと指で叩いて、その麗しい顔を見上げた。小林は大柄ではない。2人の身長差は20cmほどあるだろうか。

「これからは信頼するよ、友坂先生のこと。ありがとね」

誰からともなく拍手が起き、その響きは次第に大きくなった。撮影部や音声部のスタッフたちが大輝を祝うようにねぎらい、それぞれの持ち場に戻って行く。

「小林さんって力を認めた脚本家のことしか先生って呼ばないのに…いやぁ、すごいもの見せてもらった気がする」

「新時代の才能覚醒、って感じ?」

「今回の脚本、本当に面白いしね。小林さんに認められたって噂は業界中にすぐ回るだろうし、これからどんどん売れっ子になるね」

宮本を含むプロデューサーたちも興奮と共に大輝を褒める。

崇が、そのやりとりから逃げるようにモニター前のディレクターズチェアーに沈むと、宮本が監督専用のタンブラーを持って近づいてきた。漏れた香りでコーヒーだとすぐに分かった。

「始まる前は、キョウコ先生の相手が友坂くんだと力不足じゃないかなぁって少しの不安もありましたけど、ばっちりハマりましたね。さすが崇監督」

「…なんで、オレ?」

「だって、彼をこの作品に抜擢したのは監督じゃないですか。キョウコ先生と友坂くんを組ませたいって」

崇は無言でタンブラーに口をつけた。事務所近くにある老舗の喫茶店から仕入れている、深煎りのマンデリン。門倉組と呼ばれる崇の現場にはこの豆で挽いたコーヒーがサーバーに常備されている。崇の好みに合わせたいつもの味のはずなのに、今日はやけに不快な酸味が舌に残る。敏感な宮本がすぐに気づき、あれ、美味しくないですか?と聞いた。

「豆、古くなっちゃってたのかなぁ。新しく挽き直してきましょうか?」

「いや大丈夫、ありがとう」と笑みを返した視界の端で、キョウコが大輝に近づくのが見えた。じりっと不快な痛みが胸を刺す。微笑み合う2人。喉元にこみあげた熱と苛立ちを崇は表情を殺して飲みこんだ。



大輝が書いた通りの台詞で演じたテイクを小林は満足気に終えた。モニター前で大輝と握手を交わしたあと、小林は崇の隣に腰を下ろした。

「オレ、無意識のうちにマウントを取ろうとしてた。若い才能を受け入れる度量のある大人のふりをしながら、オレが正しいに決まってるだろって思い込んでたっていうか。

でも、彼の真っすぐさに暴かれちゃいましたね…監督も、彼の台詞の方が良かったでしょ?」

「…そうだね」

崇も認めざるを得なかった。大輝が提案の芝居の方が、ピタリとはまっていた。

「友坂先生が生み出す物語は新しい。自分の感覚が古くなってるって怖さはあるけど、そこを認めてアップデートするしかないですね」

清々しく笑った小林が、崇はうらやましかった。

冷たく不快な汗が背にじわりと滲む。本来の崇なら――新しい才能はいつだってウェルカムで、若いクリエーターたちをバックアップしてきた実績も、きっと業界の誰よりもある。でも…。

― 彼だけは。

ダメだった。キョウコが心を奪われた彼だけは。

― オレは、何をやってるんだろうな。

大輝をキョウコと組ませることにしたのは、崇自身だ。だがその時の衝動を上手く説明できない。

純粋に大輝の才能を試してみたいという欲、夫と妻、そして妻の元恋人という歪な三角関係の中で紡がせるドラマへの好奇心、その上で、別れたはずのあの2人に未だに燻る何か、その何かへの疑いを自分の目で確かめる場所が欲しかった。

そして崇には、その全てをうまくハンドリングできるという自信があった。だが完全に計算が狂った。大輝には崇の想像を超える才能があった。そして愚直なほどに誠実に作品に向き合うその姿に、今日の小林のように――次々と味方が増えていく。

周囲が大輝を認めれば認めるほど、胸の底でどす黒い熱が暴れ出す。アイツを潰せ、という醜い声が浮かんでは沈みを繰り返し、いっそこの手で何もかもをぶち壊してしまえたら――ディレクタ―ズチェアのひじ掛けを握る指先にぎりりと力がこもり、爪が白く軋んだ。

この記事へのコメント

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No Name
離婚するしないは夫婦の問題だから、大輝の才能潰すとかそんなのはもう止めてくれ。
2026/09/08 06:0910
No Name
愛とか恋とか嫉妬や復讐、ともすると
薄っぺらでありがちなものになりそう
ですが、これ程鮮やかなストーリーに
編めるんですね。
しかも極上のエンタメ要素を散りばめ
て… 恐ろしい才能。
2026/09/08 12:453

TOUGH COOKIES

SUMI

港区・西麻布で密かにウワサになっているBARがある。
その名も“TOUGH COOKIES(タフクッキーズ)”。

女性客しか入れず、看板もない、アクセス方法も明かされていないナゾ多き店だが

その店にたどり着くことができた女性は、“人生を変えることができる”のだという。

心が壊れてしまいそうな夜。
踏み出す勇気が欲しい夜。

そんな夜には、ぜひ
BAR TOUGH COOKIESへ。

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