「そんなにお偉い方がわざわざお越しくださるとは、光栄の極みだね」
「…イヤミったらしい。そちらこそ……場末の街で女帝と呼ばれていらっしゃることを、そろそろなんとかした方がいいのでは?」
「ホントにねぇ、じゃあ、キングメーカーさん、アンタがなんとかしてくれるかい?」
心底楽しそうにジントニックのグラスを傾けた光江に、紗和子はため息を堪える。いつもなら“他人を転がす”のは自分の方で、紗和子を時間も都合も関係なく呼び出せる人間など皆無…のはずなのに、光江から「明日の17時にアタシの店に来な」と、電話がかかってきただけで、今日、ここ、Sneetのカウンターに座っているということにも腹が立つ。
西麻布の女帝という通り名に皮肉を込めて、紗和子はこの街の広さを計算したことがある。東京都港区で西麻布という地名を冠するエリアは、一丁目から四丁目まで。その総面積は、およそ0.58km²で、20分もあれば、端から端まで歩ききることができるほんの小さなスポットで、今ではすっかり昔の勢いもないというのに。
― この“ババア”は、西麻布をまるで世界の中心のようにしてしまう。
小さな街の冠を被った強大な女帝。見た目はいわゆる“ド派手なおばあさん”の実年齢を紗和子も誰も知らない。
「光江さんっておいくつなのか、そろそろ教えてもらえませんか」
「アンタは相変わらずしつこいねぇ。アタシは年齢不詳の設定だっつってんだろ。その方がセクシーなんだから」
「人間界のセクシーとは基準が違い過ぎますけどね」
まるで地響きのような豪快な笑い声をあげた光江に、アンタの言葉はキレがいいから嫌いじゃないよ、と肩を叩かれながら、次はワインにするけど、アンタも飲むかい?と聞かれて、従う以外の選択肢などないのだろう…と紗和子は頷いた。
光江に“セクシーさ”があるのなら、それは野生、しかも肉食動物たちが必要とする“強さ”の色気だ。群れを統べる王である雄ライオンがたてがみを風になびかせてサバンナを駆ける様を想像しながら、紗和子は、「自分で選んでくるよ」とワインセラーと向かった光江の後ろ姿を目で追った。
ふくよかな体に沿いながら揺れるたびにオパールのような虹色を放つバニラ色のシルクドレスは、オーダーメイドだろう。ヒールを履いていることを想定してもおそらく170cmは超えている長身で、ふくよかな体が隠れていることは間違いないのだが、それにしても本当に年齢が想像できない。
とはいっても俗に言われる美魔女的な年齢不詳ではない。寧ろ全く逆。光江は昔からずっと“ド迫力のおばあさん”で、今も“ド迫力のおばあさん”のままなのだ。生まれたときからおばあさんだった、とか、実は何百年も生きている妖怪だ、などと、光江の生態ミステリーについては、まことしやかにささやかれている都市伝説が後を絶たない。
「…この世のものではないと言われた方が、納得できる」
こちらへ戻ってくる光江を見つめながら呟くと、聞こえる距離ではなかったはずなのに、あ?とガラの悪くなった光江をかわして、紗和子は、その手に握られたワインへと話題を変えた。
「ムートン・ロートシルトの白。エール・ダルジャン2003。わりと奮発していただけるんですね」
市場ではまず見かけないヴィンテージで、一本10万円はくだらないだろう、と、女帝の選択に感服した紗和子に、光江がふん、と鼻をならした。
「いつアタシがおごるって言った?話の内容次第では、アンタの支払いだよ」
それじゃぼったくりですよ、と紗和子が呆れると、アンタの無礼をこの程度のワインで帳消しにしてやろうとしてるんだから、感謝して欲しいくらいだけど、と不敵な笑みでボトルを手渡されたミチは、既にグラスの準備は終わらせていたようだった。
― リーデルのモンラッシェグラス。シンプルだけど悪くない。
金魚鉢を思わせる膨らみと、極限まで薄く仕上げられた飲み口が特徴のグラスに、黄金色に熟成した液体が、静かに注がれていくと、まずは完熟した白桃やアプリコットが香った。それを追いかけるように現れるナッツや火打石の複雑なスモーキーさを感じながら、紗和子はその華奢な脚を手に、ゆっくりと口元へ運んだ。
ひと口含んだだけでも、香り通りの濃厚な果実味と、長い熟成を経てもなお芯に残る酸を感じることができる。
― 確か、このワインには、銀の翼、って意味があったはず。
20年以上の歳月が生んだ複雑さを纏いながらも、それでもなお――このワインはこうあるべきだという、造り手のビジョンの輪郭が恐ろしいほどに鋭く残っている。銀の翼。その名は確かにこのワインのためにあるように思えた。
「これは…まあ天才だね」
光江が満足そうにそう評したのは、このワインの造り手であるパトリック・レオンが天才醸造家と呼ばれているからだが、その“天才”の響きに、麻莉奈を思った紗和子が無意識のまま眉を寄せた時、光江が、さて、とグラスを置いた。
「話は2つある。まずは1つ目。わざわざ――ともみの店に行った理由を聞かせてもらおうか」
ああやはり。女帝は2つ、と言った。光江が紗和子を呼び出したのは、おそらくTOUGH COOKIESに行った理由を知るためではない。本当の狙いは2つ目の方だ。予想していたとはいえ、背筋に走った緊張感を気取られぬように、紗和子は敢えてゆっくりと…ワインを口にしてから喋り出した。





この記事へのコメント
ともみは次からルビーに相談対応をやらせてゆくゆくは店を去るつもりなのかなぁ....