~大量生産できるものではなく、周りを巻き込んだ一点物を作りたい~
「やりきれなかった」と後悔。しかしそれを見た周りは……
金丸:しかし、どうしてそんなに「勝ちたい」と思ったのですか?
川西:建築を目指そうと決めてから、建築の雑誌をたくさん読むようになりました。当時はCGがないので、細いペンとカラーフィルムを切り貼りして、手作業でパース画を作っていたんですが、デザイナーの水戸岡鋭治さんが手掛けられたものが本当に美しかった。「こういう仕事っていいなあ」と心から思ったパース画が、1992年に走り始めた特急つばめのものだったんです。
金丸:JR九州の有名な特急列車ですね。今は新幹線にその名前が引き継がれています。
川西:肥薩おれんじ鉄道は、九州新幹線の開通を機に誕生しますから、勝手にご縁を感じて。アムステルダムの市場に行ってオレンジを買い、それをコロコロ転がしながらロゴを考えました。
金丸:それが見事に選ばれた。応募はどれくらいあったんですか?
川西:720余りと聞いています。コンペやプロポーザルには、ふたつポイントがあります。ひとつは、「なぜそうするのか」という理由がきちんと説明できること。もうひとつは、楽しさと色気です。
金丸:楽しさと色気ですか。確かに、川西さんが作られたロゴマークは、柔らかでかわいらしい。一見すると鉄道っぽさがないですよね。
川西:ロゴをせっかく選んでいただいたので、頼まれてもいないのに制服のデザインとかキャッチコピー、ポスター、切符、バッジまで勝手に案を作って提案したんですよ(笑)。
金丸:熱量がすごい(笑)。まだ実績もない中で、よくそこまで突っ込めましたね。
川西:大学時代の恩師に、栗生 明という建築家がいます。栗生先生は「建築家たるもの、提案してナンボ」「要らないと言われても、他人の家に上がり込んででも提案しなさい」と。その通りにどんどん提案したら、「ぜひやりましょう」というお話に。
金丸:言ってみるものですね。
川西:ただし、自分が考えた通りのことをやれたわけではありません。肥薩おれんじ鉄道は、熊本・鹿児島の両県、それから合併前の10の市町村が資金を出し合って運営しています。
金丸:何となく事情が分かります。自治体からいろいろな要望が出てきて、意見をまとめるのが大変そうなのが……。
川西:当時は20代前半の若者ですから、大人の世界を見たのはそれが初めてでした。仕事が一段落したあと、実は水戸岡さんにお手紙を差し上げたんです。水戸岡さんのつばめに憧れていたけど、自分は力が及ばず、「こうあるべき」というところまで突き詰められなかったと。そうすると、その手紙がなぜかJR九州の社内回覧版で回っていて。
金丸:えっ、川西さんの知らないところで?
川西:はい、勝手に(笑)。その後、2004年の鉄道開業の日に、水戸岡さんから鹿児島市のホテルに呼ばれました。当時のJR九州の社長、鉄道本部長、そして陶芸の名家である沈 壽官さん、それに水戸岡さんというとんでもない席に座らされて。そこで水戸岡さんから「これからは川西くんに任せますから」と。
金丸:なんと。かたちにならなかった熱量も込みで、今後を託すにふさわしい人だと選んでもらえたんですね。手紙を書いていなければ、ひょっとしたら今の川西さんはなかったかもしれない。
川西:このときの「やりきれなかった。どうすればよかったのか」という思いは、その後の仕事に生かされています。それに、肥薩おれんじ鉄道の初代社長だった嶋津忠裕さんは、その後、えちごトキめき鉄道の立ち上げに呼ばれて、そのご縁で「雪月花」のデザインを任されました。そういう意味でも大きな仕事でしたね。




