「私は夫を信頼しています。彼は私にウソはつけない」
「他に女を作って遊んでた人なのに?」
間髪入れずに突っ込んでしまったともみに、キョウコが「つかない、ではなく、つけない、の」と苦笑いになった。
「私がA子さんの存在を知ったのは——もう、5年以上前になるかな。夫と私の会社の事務所に、A子さんからの手紙が届いたからなの。門倉キョウコさま、って私宛に、あなたの夫と愛し合ってる、彼との子どもが欲しい、と書かれた手紙が。
それを読んでも私は、夫が浮気をしているなんて思いもせずに、夫に熱烈なストーカーじゃないかと心配になった。手紙は直筆だったし、狂気を感じたのよね」
とてもきれいな字だったから余計にね、とキョウコの視線がその文字を思い出すように宙に浮いた。
「それで夫に伝えたの。こんな手紙が来たから気を付けた方がいいんじゃないって。そしてたら…笑い飛ばすと思っていた夫が、わかりやすく動揺したわけ。そのあとはもうなんというか、彼は本当にごまかすのが下手だから。
1言2言追及したら、すぐに認めちゃったのよ。刑事ドラマの取り調べシーンなら成立しないくらい、あっさりとした自白だったわ。その子と関係が始まったのは、1年くらい前のことだって。
でも子どもが欲しいなんて言ったことはないし、一番守りたいのは、一番愛しているのは、キョウちゃんなんだって、本当に動揺してた」
キョウちゃん。少年のような門倉崇のキャラクターにぴったりと合った妻の呼び方だと、ともみは思った。
「もちろんショックだったわよ。彼はいたたまれなくなったのか、その夜から私たちは別々に暮らすようになったし、私は講義を持ってた大学で、A子さんに待ち伏せされて2人で話すはめになったりもしたりして。
なんというかまるで、遊園地のコーヒーカップ的な遊具にエンドレスに乗せられてるみたいに、ずっと何かに酔ってるみたいな気持ちだった。
それでも、どこか現実感がないままだったの。彼が——浮気したことはともかく、1年もの間、私にバレずに隠し事をしていたことに。そんなことが私の知っている“門倉崇”にできるのだろうか、って、もやもやというか、何か、すっきりしないものがずっと引っかかってる感じで」
「そんなことをするわけがないって人が、いつも犯人じゃないですか?…先生が書かれる作品の中でも」
作品に例えたともみに、キョウコの瞳に力がこもった。
「夫は…違うのよ。出会ってもう20年になるけど、私が知っている彼と本当の彼が違うことは絶対にないと言い切れる。人間は立方体のように多面体だから、もちろん知らない一面もあるとは思う。けれど彼の本質を私が見間違えていることはないと断言できる」
夫に浮気された妻の言葉とは思えない、そのゆるぎない信頼はどこから…と、ともみは気圧される。キョウコが続けた。
「私も最初は弱ってしまって、それが友坂くんに甘えるきっかけになってしまったのだけれど、そのもやもやが…ずっと引っかかったままだった。でもね、2年くらい前に、その違和感がなんだったのかわかった。
A子さんとのことは、夫が望んで始めたわけではなかったの。彼は、私を守るために…A子さんの側にいた。いるしかなかった、と言うべきかな」
守るためって?と理解が追い付かなかったが、ともみは口にはしなかった。
「しばらくして、私が離婚を切り出したんだけど…」
「離婚を切り出したのは…大輝を愛したから、ですか」
キョウコは爽やかにほほ笑んだ。
「私にも好きな人ができた。だからあなたも私に罪悪感を持たずに、A子さんとの未来を選んでくれていいと伝えた。仕事のパートナーとしての関係はこれからもきちんと続けていくから心配しないで、ってね」
そのことを大輝にも伝えたのだろうか。離婚してあなたとの人生を歩みたい。キョウコにそう伝えられたならば、大輝はきっと、世界の全ての幸せを手に入れたかのように、咲き誇る大輪の花のように艶やかに、喜びを爆発させただろう。
「そうしたら…」と、キョウコが小さなため息を零す。
「夫は呆然と固まった。それから、そうじゃないんだ、と泣き崩れた。オレを捨てないで欲しい、キョウちゃんを失ったら生きていけないって。失うくらいなら全てを話すって。その時に知ったの。夫がA子さんと関係を持った経緯を、ね」
キョウコは、繰り返すけれど、ともみさんを信用して話すのだから、必ず他言無用で、と念押し、ともみが頷くのを待ってから続けた。
「地方の撮影の打ち上げのあと、ひどく酔っぱらっていた夜、朝目覚めると夫とA子さんは裸で一緒に寝ていた、ということ。夫には前夜からの記憶が全くなかったけれど、A子さんによると、夫が強引に迫ってきて、自分は拒んだのに最終的には関係を持ってしまったということ。
そう言われればその痕跡もあって…呆然とした夫に、A子さんは言ったそうよ。
『私はずっと監督のことが好きでしたけど、奥様がいらっしゃるから諦めていて…でも、監督も同じ気持ちでいてくれるなら、って体を許したんです。これから私を恋人にしてください。そしたら今夜のことは許してあげます』ってね」
「その、監督の言葉を…信じたんですか?」
妻に浮気がばれた男が、女性に嵌められたのだと事実を捻じ曲げる、そんな常套句にも聞こえたからだ。けれど。
「もちろんよ。だって彼は私にウソをつかないから」
揺るぎのないキョウコの表情とその言葉に、ともみの胸がまた、ざわつき始めた。
― 女として、というより…人として圧倒されてしまう。
誰かを信じぬくことはとても難しいものだ。それが浮気した夫なら尚更。けれどキョウコは夫を信じている自分を信じているから、それを今、こともなげに、まるで当たり前のことのように、やって見せている。
そんな強さをもつ女性は、性の魅力を超えて人として美しい。人は裏切るものなのだからと諦めて生きてきたともみにとっては、眩しく妬ましい美しさだ。
「彼はお酒にとても強いのよ。その上で飲む量をセーブする人だから、酔いつぶれた状態をみたのは20年の付き合いの私でさえ、たった1度しかない。
でもその日は…打ち上げで最初の乾杯をしたあと割とすぐに、彼はその場で眠り始めてしまったらしいのね。
うちの会社のスタッフも、監督が寝落ちするなんてはじめてみたと驚いていた。そんなに疲れている様子もなかったらしいし。それから男性スタッフとA子さんが、寝かせようとホテルの部屋に連れていった」
この記事へのコメント