「…まさか」
普段酔わない程に酒に強い人は、たとえどんなに疲れていたとしても、打ち上げで出てくるような希薄なアルコールで、眠る程に酔うことはない。となると。
― A子がハメた?
近くに座っていたなら、監督の酒に薬を入れることだってできる。今ともみが想像したことを、きっとキョウコも考えたのだろう。
「夫はA子さんに、一夜限りの関係にするなら、無理やり関係を持たされたことを世間に訴えると言われた、と」
そうなれば、事実がどうであれ、世間は圧倒的にA子の味方になるだろう。
「それでも自分は妻が一番大事だから、恋人になんてできないって謝ったらしいの。そしたらA子さんに泣かれてしまって。私のことを欲望のはけ口にしたんですか、遊ばれたならもう生きていけないって。
あの人はバカ正直で優しい人だから。A子さんは真面目で優秀な部下で、それまで好意をぶつけられたこともなかったってことも大きかったみたい。自分がこの子を傷つけてしまったんだと、一夜の責任をとらなければと思ってしまったみたいなの」
「そんなバカなこと…まさかそれでほだされて、監督は先生にバレるまでの1年間、関係を続けたんですか?だいたい、脅してくる時点で怪しいじゃないですか、その女(おんな)の行動は…」
呆れ、またも言葉が強くなったともみに、キョウコが困ったように、だからバカな人なのよ、と笑った。
「でも彼はそれ以来、A子さんと一度も関係を持たなかったらしいの。A子さんに脅されて強引に迫られても、男性的にというか物理的に無理だったみたい。それでも彼女が望むまま…呼び出されるたびに一緒に過ごすことで、満足してくれればいいと思っていたんだって。
まあ、A子さんの彼に対する気持ちは本物だったんでしょうし、健気だったんでしょうね。一緒に過ごすうちに、それが愛じゃなくても…手のかかる危なっかしい妹のように感じるようになって、ほっておけなくなったんじゃないかしら」
哀れむようなキョウコの口調から、夫への恋情はもう存在していないことを、ともみはあらためて感じた。
「でもそれがなぜ…監督がA子さんとの関係を続けることが、先生を守ることに繋がっていくんですか?」
「A子さんは、度々言ってたそうよ。もう離婚はしてくれなくてもいい。でも自分の側を離れるなら、今度は奥さんを攻撃する、と。自分はどうなってもいいから、破滅の道連れにしてやるってね。
私に直筆で手紙を書いた狂気を、彼は一番近くで感じていたはずだから」
「それでも、その事実を…脅されているとか、そもそも関係をもったことすら怪しいとか、もっと早く…先生に正直に話せばよかったんじゃないんですか?手紙が届くまで、監督は先生に隠し続けていたんですよね?」
「…そう、それが、とても悲しかった」
キョウコの顔が、寂しそうに歪んだ。
「彼は、全て本当のことを…A子さんと関係が始まった夜の記憶がないことを話しても、私が信じてくれないと思ったみたい。
話せば、私に軽蔑されて捨てられるのが怖くて言えなかったって。だからせめて、A子さんの言う通りにして、私に危害が及ばないように守ろうとしたらしいんだけど…」
言葉を切ったキョウコに、ともみは切なくなる。
「私は彼の言葉ならきっと疑わなかった。そしてA子さんとの問題を解決しようって提案したと思う。たとえそれで、彼女に逆上されてキャリアを失うことになったとしてもね。
でも夫は——私が彼を信じて一緒に闘う人間だってことを、信じてくれてなかったってことだもの。とにかく…私が事実を知るのが遅すぎたのよ」
人生はタイミングだとともみも思う。もし5年前のその時に、門倉夫婦が全てを分かち合っていたら。2人でA子との問題に向き合っただろうし、きっと——大輝の気持ちをキョウコが受け入れ、2人が愛し合うこともなかったのだから。
「でもなぜ…そのA子さんが大輝を攻撃することになるんですか?」
「私が離婚を切り出したことで、夫は耐えられなくなり全てを告白してくれて、私も夫に伝えたの。もうA子さんの側にいる必要はない、たとえ私にどんな矢がとんできたとしても、私は自分で闘えるからってね。だから、夫はA子さんにもう会わないと告げた」
その後、A子が門倉監督を訴えることはなく、表面上は、平穏な日々が続いていたというが。
「でも、その半年くらい後かな。彼女が私の前に現れたってわけ。私と友坂くんの関係も、私が夫と別れて彼との人生を歩もうとしていることも知っていた」
「それが、不思議です。A子さんは、探偵でもつけたんでしょうか?どうやって大輝のことを知ったのか…」
それは…とキョウコは言葉を濁した。
「私も詳しくは知らないの。もし気になるなら友坂くんに聞いてみて。友坂くんとA子さんは、その前から面識があったみたいだってことだけは、確かよ」
― なぜ、大輝とA子が…?
ともみの疑問を吹っ切らせるかのように、キョウコは、ともかく、と続けた。
「A子さんは、私に“愛”を失わせることに執着したんじゃないかと思う。だっておかしいでしょう?普通に考えて、私への恨みなら、私の不倫を暴露して、その相手が友坂くんだということも公表してしまえば、私は社会的立場や仕事、そして友坂くんも沢山のものを失うのに。
でも、そんな一挙両得的な破壊方法じゃなくて、A子さんは別れなければ友坂くんを攻撃すると、私に選択肢を与えた。その提案なら、私は愛を手放す代わりに友坂くんを守れる、ということになるでしょう」
確かに、週刊誌やSNSにキョウコと大輝の不倫を暴露したとして、2人がキャリアや、夢の全てを失ったとしても、愛だけは貫くことができる。
― むしろ全てを失った方が、堂々と一緒に過ごせるようになっただろうし。
きっと大輝なら…自分の夢が潰れたことなど気にせず、キョウコを守るために生きられる喜びに満たされて過ごしてゆくだろう。そしてそれは、初めての愛を知ったキョウコにとっても、幸せな日々になったはずだ。
「結果的に彼女の攻撃はとても的確で効果的だったってわけ。友坂くんを狙われたら、私は彼を守る選択をするしかないのだから。私は私の選択として、愛を手放した。私から愛して愛される喜びを奪うこと。それこそが、A子さんの狙いだったんでしょうね」
◆
「友坂くん、だよね」
未だ懇親会と称したパーティーが続いていた宴会場で、何気なく時間をつぶしながら、ともみからの連絡を待っていた大輝は、背後から声をかけられ振り向いた。
「門倉監督」
かつては誰よりも羨ましかった恋敵の登場だった。大輝は少し驚きながらも、「お会いするのは、はじめてですね」と微笑んだ。
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