「ルビーにこの店のことを聞いたあの夜は、まだ自分が乗り越えられると信じてた。けどあれからいろいろあって。もう、限界で。これ以上1人で抱え続けたら、たぶん私は…壊れてしまうなって」
『心が壊れてしまいそうな夜、そんな夜には当店へ』
TOUGH COOKIESの店紹介にあったその言葉を、美景はずっと忘れられなかったのだと言った。
「私ね、結婚を…プロポーズを断っちゃったんだ」
「…え?ウソでしょ?なんで?」
驚いた顔の見本のように目をまん丸に見開いたルビーが早口になる。
「2人、超ラブラブじゃん!一真(かずま)さん美景さんのこと大好きで、めちゃくちゃ優しくて信用できる人なのに…まさか、浮気でもされた?」
いや、そんなわけないよね、一真さんに限って…え、じゃあ、どういうこと?なんで?と混乱し、独り言のように疑問を繰り返しているルビーは、一真という美景の恋人をよく知っているようだ。
ルビーが“優しくて信用できる人”と言うのなら絶対にそうなのだろう、とともみは思った。ならば結婚できない事情は…。
― 美景さんの方にあるということ?
ともみが美景を見たタイミングで、美景は、ごめんね、ともう一度ルビーに謝った。
「これから話すことで、ルビーは私にがっかりして…軽蔑して、嫌いになるかもしれないけど」
「そんなことありえない」
強く即答したルビーを、まるで子どもをあやすような優しいまなざしで見つめ、美景は小さく深呼吸をしてから言った。
「私ね。会社の資金のために…ある男性に、金銭の援助を受けたことがあるの。いわば——愛人契約みたいなものかな」
「……そ、れって、どういう…」
どういう意味だと聞きたかったのだろうが、ルビーの言葉は続かなかった。
「妻子のある人と、体の関係を持ってた。付き合ってたと言えば聞こえはいいけど、相手の好意を利用して、資金援助してもらってたの」
「そもそも不倫なのに付き合ってたっていう表現も違うよね」と自嘲の笑みを浮かべて、美景は続けた。
「自力で成功した女社長とか持ち上げられてるけど…本当の私は…皆さんにも、ルビーにも尊敬される資格なんてない。誰にも頼らず生き抜いてきた強くてかっこいい女じゃないの。男を利用してのし上がった汚れ切った女だよ。
それを隠し続けるのが…もう限界で、今日、告白しようとここに来た。
でも、皮肉なものだね。今、本当に…自分自身の力だけで生きていける今になって、罰が下されちゃったの。消し去りたかった過去が浮かび上がってきちゃった」
何の反応もできず、ただ茫然と美景を見つめ続けているルビーの、その瞳から逃げるように美景は強く目をつむると、何かを堪えるように天を仰いだ。そして呼吸を整え、ルビーに視線を戻してから言った。
「もう何年も連絡を取ってなかった…資金を援助してもらった男性が私を脅してきたの。どこかで私がプロポーズされたって話をききつけたみたいで——結婚だけは許さない。他の男と幸せになんてさせない。もし結婚するなら、お前がオレの愛人だった過去をばらして、何もかもをめちゃくちゃにしてやるって」
ルビーはまだ絶句している。美景は諦めたように笑い、カイピリーニャをグッとあおった。
もしそうなったら、コツコツと資金を貯め、自分の力で夢をつかみ取った若き女社長、というブランディングは崩壊するだろう。
美景のイメージダウンだけでなく、商品も売れなくなり会社の存続も危うくなる可能性もあるとともみは思った。でも。
― 美景さん、そんなに恨まれることをしたの…?
愛人契約ということは、男は既婚者だったのだろう。愛人の方からの攻撃ならまだしも、既婚者の男が何年も前に別れた愛人を脅迫してくるとは、あまり聞いたことがない話だ。
「だから、彼からの結婚を断ったんですか?会社を守りたくて?」
ともみの質問に、美景は目を伏せ、ほんの少しだけ皮肉気に口角を上げた。
「必死で築き上げた自分の子どもみたいな会社だから、もちろん大切だし守りたい。失うなんていやだし怖いけど……でも…それよりももっと私が怖いのは…」
口にするのも恐ろしいというように黙ってしまった美景の代わりに、ともみが口にした。
「一真(かずま)さんでしたっけ」
「…」
「恋人に…彼に、愛人だったことを知られるのがイヤなんですね」
ともみへの答えをごまかすように、無言でカイピリーニャに逃げた美景に、ルビーが、バカ!!と怒鳴った。
「る、ルビー?」
驚き問いかけたともみをちらりと見ることもなく、ルビーは顔を紅潮させ、カウンター越しに美景を睨みつけている。
褐色の肌を持つハーフであるルビーの、濃いまつ毛に縁どられた大きな目と、噛みしめられた肉感的な唇が怒りに震えていて、そのグラマラスな体から、まるで燃え盛る灼熱が発されているかのような迫力だ。
― ルビーってこんなに怒るんだな。
ともみが妙な感心をした瞬間、ルビーは、もう一度、バカ!!と叫び、カウンターを駆け出た。そして呆気に取られていた美景をきつく抱きしめ、声を上げて泣き出した。
「バカにすんじゃねーよ。美景さんがどんなに苦しい思いをしても諦めないで、どんなに必死で今の会社を作ってきたか、アタシはし、知ってるんだから。
おっさんとの愛人契約だかなんだか知らないけど、そんなことくらいで、キライになんてなるわけない!!…っ美景さんはっ…ア、アタシのこと、いつだって守ってくれた人なのに!アタシの美景さんへの気持ちをなめんな!!汚れ切った女とか言うな!!アタシの大切なネキ(姉貴)を、ば、バカにしないでよっ!!」
子どものように感情をむき出しにして泣き叫ぶルビーに、ともみは…そして美景もどうしてよいのかわからないまま。美景がおそるおそる、その背に手をまわし…トントンと優しく叩いてあやしながら、ただルビーが泣き止むのを待った。
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