「いつか凪も——愚かな私に呆れて家を出て行く日が来たらどうしようって…だから凪が家を出て行った時、呆然としてしまって…」
「…凪に捨てられたって思ったってこと?」
愛の質問は優しかった。葵が、情けないよねと頷く。凪はただ…母を見つめている。
そんなことはありえないと、娘ときちんと向き合っていればすぐにわかったことだろう。凪がいかに母を愛し、その愛を求めていたのかにも気づけたはずだ。けれど。
夫が他の女を選んでも、婚前契約のせいで離婚を選べないまま10年近くを耐えてきた葵。その心が、娘を夫に重ねてしまうほど壊れてしまったことを、責めることはできないと愛は思った。
— 娘は母に捨てられるのではと怯え、母も娘に捨てられるのではと怯えてた、なんて。
ともみの中に怒りが湧いた。母の告白を受け、唇をかんでうつむいた凪の代わりに、怒りを爆発させる。
「葵さんご心配なく。ここまでのお話の登場人物の中で、最も愚かで、知性もついでに品位もないどうしようもないヤツなのは、間違いなくご主人ですから」
3人がポカンと驚き、ともみを見た。
「どんな理由があったとしても、ただのバカなエロ親父ですよ。女に目がくらんで夫と父親の役割を放棄したただのバカ。そんな人が賢いわけないじゃないですか。それに葵さん」
呼ばれた葵が、は、はい、と姿勢を正した。
「凪ちゃんが賢くなっていくのが怖いとおっしゃっていましたけど、凪ちゃんが賢くなったのって、葵さんの子育てが成功してるってことですよね?
その上凪ちゃんは、お母さんが自分の顔をみて苦しくなるくらいなら…ってお母さんのために顔を変えようとする程、母思いの優しい子に育ってるじゃないですか。父親不在の超ワンオペの環境で、そんな子育てができた葵さんが賢くないなんて絶対にありえない。
葵さんこそが、誰より賢い人なんだと私は思いますけど」
「その通り!」と愛は拍手し、凪はともみに抱きついてまた泣き出してしまった、のだが。
◆
「普通なら、そこで感動的に終わるのに、その後も淡々と続けちゃうってところが、ともみちゃんらしくて笑えたな~」
「…愛さん、あれは笑ったってレベルじゃなくて、爆笑でした」
「ともみちゃんって、ちゃんとしてる風に見えて、なんかちょっとズレてるよね」
ま、そこがかわいいんだけど、と、まるでステーキのようなぶ厚さのランプ肉を焼き始めた愛に、ともみは納得がいかないと思う。
ともみが続けたのは、凪の“彼ぴ”こと、南洋太についての話だ。
葵の手前、凪が南の自宅に泊まり続けていたことや、一緒に酒を飲んでいたことに触れるのは避けた。その上で、整形の料金を自分が出すから親の同意は不要だとそそのかした“ろくでもない男”だから、絶対に別れた方がいいと、あえて葵の前で言ったのだ。
「…ともみちゃん、なんで今、そんなこと言うの!?」
と、凪が慌て、葵がどういうことだと怒り、もうひと悶着起こってしまったが、その結果は。
「強制的に別れさせられたらしいよ。葵があの男のことを探ってみたら、凪の他にも何人もの女の子に手を出してたんだって。凪にそれを伝えたら、思ったよりあっさり納得したみたい」
凪があの程度の男に惑わされることはもうないだろう。凪と話しこんだ間に、その賢さを感じていたともみは、愛の話を聞いて安心した。
― そもそも、あの男はお母さんの代わりだったんだろうしね。
「凪がともみちゃんの連絡先が知りたいらしいんだけど、教えてもいいかな?直接お礼がいいたいんだって」
すぐに返事ができなかったともみに、愛が、気が向いたら教えて、と話題を変えた。ともみが気軽に連絡先を交換するタイプではないとわかった上で、気をまわしてくれたのだろうと感謝する。
― でも。
妹がいたらあんな感じなのかな…とぼんやりと思っていると、冷麺が運ばれてきた。
「……愛さん、冷麺なんて頼んでましたっけ?」
「頼まなくても、いつも途中の口直しに出してくれるの。この太麺が美味しいよ~」
直径15cmほどの韓国の銀食器。小サイズではあるとはいえ、このあと確か、ハラミやカルビ、ウルテと呼ばれる牛の軟骨、野菜盛りも頼んでいたはずだ。
「まだ結構きますよね、ちょっと私、お腹に自信が…」
「ルビーときた時と同じ量だから大丈夫だよ。あ、スープ頼むの忘れてた。すみませ~ん」
と店員を呼んだ愛に、ルビーと一緒にされたら私の胃はもれなく爆発します、と突っ込みながらともみは思った。
― 今日の、ルビーの知り合いのお客様ってどんな人なんだろう。
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