港区・西麻布で密かにウワサになっているBARがある。
その名も“TOUGH COOKIES(タフクッキーズ)”。
女性客しか入れず、看板もない、アクセス方法も明かされていないナゾ多き店だが、その店にたどり着くことができた女性は、“人生を変えることができる”のだという。
タフクッキーとは、“噛めない程かたいクッキー”から、タフな女性という意味がある。
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浜本葵と凪。嵐のような母と娘のTOUGH COOKIESへの来襲と仲直りの夜のお礼を…と、ともみが愛に誘われたランチは、天現寺の交差点近くにある愛の行きつけの焼肉店だった。
「この店、めちゃくちゃお肉の質がいいのよ~」
ともみの好き嫌いを確認したあと、愛は、馴染みの店員に手際よく注文を始めた。どんどん増える品数に「多すぎませんか」と、ともみが突っ込むほどの量を。
最初に生ビール、次に、下のタンが隠れてしまうほど、たっぷりのネギがのせられた二人前のネギタン塩が運ばれてきた。
「焼くのは私に任せて」とトングを手に張り切る愛は、焼肉には並々ならぬこだわりがあるらしい。
「ここのネギタン塩は片面だけ焼くのがお勧めなんだけど、お肉ってレアでも大丈夫な人?」
ともみが頷くと、愛は慣れた手つきで、山盛りのネギがのったタンを手際よく焼き上げ、ともみと自分の皿に取り分けた。「絶品だから熱いうちに食べて~」という愛に急かされるように、タンに箸をつけたともみに微笑むと、自分も口にし、うーん、絶品!と顔をほころばせた。
「凪、とりあえず今は整形はやめとくって。あの後2人で家に帰って、親子できちんと話せたみたい。ホントありがとね、ともみちゃん」
タンを味わっていたともみは口を開くことができず、ただ微笑んだ。脂が少ないタンなのに固くはなくジューシーで、ごま油が香る特製のタレで和えられたネギのさりげない苦みと共に、肉のうま味が口内に広がっていく。
「でもほんと、あの時のともみちゃん、かっこよかったなぁ」
生ビールの中ジョッキを左手に持っても、右手のトングを放さず焼き加減を調整し続ける愛を、まるで肉に真剣勝負を挑んでいるようだと感じながら、そのからかうような口調に、ともみはむず痒い気持ちになった。
TOUGH COOKIESで母と娘が抱き合って泣き、愛ももらい泣きのレベルを超えて号泣したあの夜。ともみはそこで終わらせず、提案した。
「凪ちゃんは率直な気持ちをお母さんに——葵さんにぶつけましたが、葵さんも、自分の思いをごまかさずに全て、凪ちゃんに伝えられた方がいいと思います。
それが凪ちゃんにとってつらいことであっても、今の凪ちゃんなら…受け止められるはずだから」
葵は躊躇を見せたものの、「本当のことを聞きたい」と凪に真っすぐに見つめられ、覚悟を決めたように語り始めた。
「凪、ごめんね。確かにお母さんは、宏太郎さんに似ているあなたの顔を見るのが苦しくなってた。彼へ嫌悪感がこみ上げてしまうから。でもそれは単純に2人の顔が似ているからってことだけじゃなくて、たぶん一番は——怖かった、んだと思う」
「どういうこと?」とおずおずと聞いた凪に、葵が弱々しい笑みを浮かべた。
「凪がどんどん賢くなっていくから。小学生の頃からずっと成績は良かったけど、高校に入ってからは特に伸びた。先生にも、このままいけばお父さんと同じ…東大にも合格できるって言われたよね。それは凪の努力の結果だし、私だって誇らしい。——誇らしいはずなのに」
葵はそこで言葉に詰まった。けれど誰も先を促すことはなく、隣に座る愛が、ただ優しくその背を撫ぜる。そのうちに呼吸を整えた葵が、「本当に情けないんですけど」と、今度はともみを見て、再び話し始めた。
「私は…凪の賢さが怖くなったんです。あの人に似て賢くなっていく凪を、いつからか喜べなくなりました。今思えば、たぶん、賢さへのコンプレックス、だったのかもしれません。
宏太郎さんが家を出て行って、帰ってくる頻度が減って。私は自分と彼女を比べるようになりました。
彼が夢中になっているあの女性は、学歴も知識もあって賢い。でも私は、賢くないから共に歩む同志にはなれない。政治家の妻としての振る舞いを必死に学んで少しは身に着けたつもりになっていたけれど、どんなに努力したところで、お前は所詮、偽物で無能なんだとバカにされている気がして。
悪夢にうなされるようにもなりました。彼にも、そしてお義母さまにも、蔑まれて笑われて、捨て去られる夢を。凪が…賢いお母さんの方がいいと言って、あの女性を選んで家を出て行く夢を見たこともあります」
「そんなこと絶対にありえない」
怒ったようにつぶやいた凪に、葵の目には再び涙が浮かんだ。
「どんどん賢くなっていくあなたと、宏太郎さんが重なってしまった。凪のことが本当にかわいいのに怖い。愛しいのに怖い。あの人だって、最初は私を愛して求めてくれていた。けれど結局、賢い女性を選んで私は捨てられた。だから…」
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