そのとき、葵の視線が動いて、言葉が止まった。ともみが個室から一人で出てきたことに気がついたのだ。凪は…?と表情を曇らせ、母親の顔になった葵に、ともみが「落ち着きました」と、ほほ笑んだ。
「そろそろ…凪ちゃんをここに連れて来ても大丈夫ですか?凪ちゃん、お母さんと話す決心がついたみたいで」
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「一人でちゃんと話せるかわかんないから…ともみちゃん隣にいてもらってもいい?」
個室を出て、先に歩くともみのシャツの背中を引っ張り、そう言った凪に、ともみの胸がぎゅっとなった。
雨の中をさまよう子猫と目が合ったような。いいよと答えながら、ともみはむず痒い気持ちになる。
先ほどまで向かい合って座っていた愛と葵は、今は並んでソファに腰かけ、その向かいに凪が腰を下ろした。
飲み物の追加を愛に尋ねると、ここからはノンアルで、と言われて、ともみは4人分のコーヒー(凪はカフェオレ)を入れることにした。
「メープルシロップが合う、浅煎りのコーヒーにしましたから、甘いのが苦手じゃなかったら、少しだけ入れてみてください」
それはBAR・Sneetの店長、ミチから教わったことだった。メープルシロップの甘くて優しい香りにはリラックス効果があるから、深夜にコーヒーを注文されたお客様に、数滴垂らすことをお勧めしてみてもいいと。
3人が小瓶に入ったメープルシロップを、少しずつ自分のカップに流し入れるのを見ながら、ともみは凪の横に座った。
スプーンで混ぜる音、それによりほのかな甘さが広がっていく中、沈黙が続いた。凪は、話す決心をしたとはいうものの、カフェオレのカップを手にうつむいたままだ。
「凪…さっきは叩いてしまって…ごめんね」
葵の謝罪にもその顔は上がらない。
「凪ちゃん……話してみようか?」
促したのはともみだった。焦らせるつもりはなかったが、顔を上げてくれれば、葵がどんなに心配そうに娘を…凪を見つめているのか、その視線の温もりだけでも、凪が知ることができると思ったからだ。
凪はゆっくりとカップを机に置き、ともみを見た。ともみが微笑むと、決意を固めるかのように凪の喉がゴクリと動き、その視線を静かに愛へ、そして葵へと移した。
「…ごめんなさい」
絞り出すように出されたその声は消え入りそうに細かった。凪の膝の上で震えるその右手をともみがぎゅっと握ると、凪の言葉が続いた。
「家出したこと、それから今日お母さんをここに来させてしまったことも。ごめんなさい」
凪を見つめていた葵の瞳が揺れて、こみ上げるものをこらえきれない様子でうつむいた。その左手を、今度は愛が優しく握った。
「…そんなこと言わせてごめん。凪は何も悪くないの。悪いのはお母さんだから。本当にごめんなさい」
うつむいたままつぶやいた葵の太ももに、涙がぽたぽたと落ちた。愛が自分のバッグからハンカチを取り出し、そっと葵に差し出す。そんな愛の頬も、すでに涙で濡れている。
葵の様子が店に来たときとはずいぶん変わったことに、ともみはホッとした。愛が葵の心を落ち着かせてくれたのだろう。
― 今の葵さんなら、凪ちゃんの話をちゃんと聞いてくれるはず。
そう思い、ともみは続けた。
「凪ちゃん、謝るだけじゃなくて……お母さんに、ちゃんと話してみよう」
お互いに謝れたことだけでも、十分な進歩だ。けれど、本心を伝え合わなければ、またいつか同じすれ違いが起こってしまう。
そんなともみの意図を理解したかように、凪はおずおずと、でも強い目で頷き、母を見つめた。そしてふうっと長い息を吐き出してから言った。
「お母さんは、私の顔が嫌いなんだよね」
「…!?」
葵がはじかれたように顔を上げた。涙のにじんだ瞳が見開かれ、何かを話そうとしているのに言葉にならない様子だった。そんな母に、いいの、わかってるから、と諦めたような口調で、凪が続ける。
「私の顔を見るの、そんなに辛い…?」
「……ごめん、凪、本当にごめん。お母さん、あの時はどうかしてた。嫌いなんかじゃ…」
言い訳のように続いた葵の言葉を「ごまかさないで」と、凪が遮った。
「私だってずっと自分の顔を鏡で見るのが辛かったもん。あの男が大キライだから、あの男に似ていく自分の顔を整形で変えたかった。でも本当は——あの男に似ていくのがイヤなのは、怖かったからなんだって…今日、気がついたの」
「怖かった、って…」
ともみと繋いでいた凪の右手にグッと力がこもり、ともみも「がんばれ」と応えるように、握り返した。
「お母さんが私を見る目が怖くなったのは、あの日——お母さんが、私の顔を見たくないから出ていくようにって言った、あの日が初めてじゃないから。この1年くらいかな。お母さんが、私と目が合うと慌てて目を逸らしたり、睨むように見ていたり…そんなことが続いてた。
わかるよ、だって、お母さんをたくさん傷つけたひどい男に、どんどん似ていくんだもんね、私の顔…」
葵は衝撃を隠せない様子でただ固まっている。
「一生懸命、その気持ちを隠そうとしてくれてるのも知ってたよ。でも、私、どんどん怖くなったの。私がこれ以上あの男に似てしまったら?お母さんは今よりももっと、私を見るのがイヤになって、私を捨てちゃうんじゃないかなって。それが怖くて…」
「だから…整形を…?」
呟いたのは愛だった。凪が、へへへ、と顔を歪めて笑い顔を作ったのはきっと、涙をこらえているからだと気づいたともみがその背を撫ぜる。
「お母さん、本当のことを教えて欲しいです。もしかしてお母さんは、この顔だけじゃなくて、私のことを、もう全部嫌いになっちゃった?
だってお母さん、好きな人ができたんでしょ?あの電話の相手に恋しちゃったんでしょ?その人と一緒にいることを決めたら、私は、私のことは…」
言葉に詰まり唇をきつく噛みしめていた凪の瞳から、涙がとめどもなく溢れだした。けれどそれでも、喉につかえた思いをなんとか吐き出そうと、嗚咽を堪えながら懸命に続ける。
「わ、私のことは、もういらないですか?…私は…あの男に似ている私は、お母さんに、捨てられちゃいますか?どう、すれば……っ、この顔を変えたら、捨てられないですか?お母さんにこれ以上嫌われたくない、嫌われるのが怖いの。だから…」
なんでもするから、と震えながらうつむいた凪を、ともみが抱きしめようとしたそのとき、目の端で影が動き、それが葵だったとわかった時には、凪はすでに母の腕の中にいた。
「お母さんにとって、誰より、何より、一番大事で守りたいのは凪なの…!!捨てるなんて絶対ありえない。でもごめん、ごめんね凪。そんなこと思わせて、こんなに苦しめて、本当にごめんね。あなたは、お母さんの生きる意味なの。本当に一番大切なのよ」
葵の腕に力がこもり、母の腕の中で凪の泣き声は大きくなった。がまんを知らない子どものように感情を爆発させ、泣き叫んでいる。それを抱きしめる葵も嗚咽し、2人を見守る愛も、肩を震わせながら涙が止まらなくなったようだった。
― 愛さん、号泣じゃん。もらい泣きで号泣する人なんているんだ。
ともみは、もらい泣きのレベルを超えた、愛のぐしゃぐしゃの泣き顔がなんだかおかしく見えて、小さく笑ってしまった。
「ちょっと、ともみちゃん、何笑ってる……の」
不謹慎だと咎めようとした、愛の言葉が止まったのは…ともみもまた、笑いながら涙をこぼしていたからだった。
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この記事へのコメント
姑は我が子の不祥事を知っているんだろうか。明るみになったら、本当に支援者いなくなるよ。葵や政治学者の女性は喋らないだろうけど、周りから漏れることもあるからね。