葵の視線が落ち、カールのない長いまつ毛の影がその頬に落ちる。
「そんな状態でも彼を最初は憎めなかったの。愛してたし、私のことも大切だとは言ってくれたから…。諦められなくて、期待を捨てられなかった。
私たちには、凪もいる。今は燃え上がっている相手でも、その熱が冷めたら…」
「帰ってきてくれるかも、って?」
バカだよね、と笑った葵に、愛は切なくなった。葵は幼い時に父を失い、母子家庭で育った。その母も病弱だったこともあり、若い時から家計を支えてきた。その生い立ちのせいか、多くを求めずとても我慢強いのだ。
「でも、彼は冷めなかった。凪の顔を見たかったみたいで、週に一度くらいは帰ってきていたの。もちろん許せるわけがなくて、最初はケンカもしてた。その頃、愛には凪を預かってもらってたよね」
愛は、自分の家に泊まりにきていた頃の、まだ幼い凪を思った。凪は年齢にそぐわず扱いやすい子で、一度もわがままを言わず、激しく泣いたり怒ったり、感情を露わにしたこともなかった。
ただ、いつのことだったか——凪が「愛ママって呼んでいい?」と聞いてきた、あの緊張をはらんだ幼い声を、愛は今でもはっきりと覚えている。
「そのうちに、宏太郎さんが帰ってくる頻度はどんどん少なくなった。凪がなんとなく、父親には別の女性がいるってことに気がついた頃から、さすがに気まずくなったんだと思う」
親として…私も彼も、凪には本当に申し訳ないことをしたよね、とうなだれながら続けた。
「それでさっきの話。今まで離婚しなかった…というかできなかった理由なんだけど。私ね、結婚するとき、契約を交わしてるの」
「…契約?」
「いわゆる婚前契約書っていうものね。主に、宏太郎さんとか浜本家で起こったこととか、彼らとのやりとりを、他人に漏らさないっていう守秘義務的なこと、あとは離婚にまつわること、とかなんだけど」
愛には今、話しちゃったんだけどね、と葵が自虐的に笑う。
その婚前契約書にサインできないのなら結婚は認めないというのが、義母の最後の条件だった。宏太郎は、納得できなければサインする必要はないと葵に伝えてくれたというが、葵は自分との結婚のために苦労している宏太郎のためにも、サインすることを決意したという。
浜本家で起こったことが話せない契約書なら、もし葵が夫の不倫を憎んで復讐したくても、週刊誌はもちろんSNSに暴露することもできない。議員の家を守るための契約書としてはよくできているのだろうと、愛は苛立ちながらも理解をした。
「その契約書の中にね、宏太郎さんと私が離婚した場合、私たちの間に生まれた子どもの親権は絶対的に宏太郎さん…父親のものになる、という項目があるの。つまり、離婚の原因が彼にあって、彼が父親としての役目を果たしていない現状があっても、私は凪を奪われてしまう」
なぜそんな条件でサインをしてしまったのかと、普通であれば聞くだろう。けれど愛はその言葉を口にできなかった。
「その頃は、まさか自分が離婚することになるなんて考えてもみなかったから。彼に強く望まれて結婚することになったのに、そんな未来があるなんて思いもしない。だから、絶対に離婚なんてしないんだから、サインしても大丈夫だと思ったの。バカだよね」
「…バカじゃないよ。信じてたんでしょ。葵を——運命の人だと言ってくれた宏太郎さんの言葉を」
信じた挙句が今、このありさまなんだけどね、と呟いた葵の、その小さなため息で、テーブルの上に置かれていたキャンドルの炎が小さく揺れた。
「だから私は離婚を選べないの。凪を奪われてしまうから」
弁護士を立てて、その契約を無効にすればいいと考える人もいるかもしれない。けれど、正義や正当な権利が、権力によってねじ伏せられ、白を黒に変えられてしまう世界が存在することを、愛は身をもって知っている。
愛も“由緒正しき家”に嫁ぎ、元夫の不倫が離婚の原因にもかかわらず、全ての責任が愛にあると捏造され、子どもの親権を失った当事者だからだ。
「離婚して凪と離れて暮らすことになったら…面会だって、月に一度も許してもらえるかわからない。そんなの絶対に耐えられない。だから凪を失うくらいなら、今の状況を続けることがましだった。
宏太郎さんは…今でも凪の様子が気になるのか月に一度は帰ってくるの。彼なりに凪のことを愛してはいるんだと思う。けど、凪よりも政治が大事な人だから。
私はもう、彼に対しては、事務的に接することを徹底した。妻としての役割…妻を同伴しなければいけない場所に同行したり、お礼状を作って各所に送ったり。彼が帰ってきても、業務的なやりとりしかしなくなったから、凪の前でケンカもなくなったと思う。
そのうちに私たちは宏太郎さんがいないことが当たり前になって、私は、凪を守る、きちんと育てるってことだけに集中した。
父親がいない不安を感じさせたくなくて必死だったし、ひどい状況なのに凪はいい子に育ってくれて…その成長だけが、私の支えだった。けど…」
言葉に詰まった葵が、顔を歪める。
「凪が大人になるにつれて、宏太郎さんにどんどん似ていくことが…」
「…つらくなってきた?」
「かわいいの。何より愛おしくて大切なの。それは絶対にそうなの」
必死に訴える葵に、「葵の凪への思いは疑ってないよ」と、愛が優しく微笑む。
「今日の話を聞いたら、仕方がないと思うよ。親だって聖人君子じゃない。その上、葵は、宏太郎さんから、酷な仕打ちを受け続けて、何年もそれに耐えてきたんだから。
その面影が…凪に見え隠れするひどい男の面影が、憎らしくなることがあっても、仕方ない気がする。帰ってこない夫だと割り切ったつもりでも、葵は自分でも気づかぬ間に——自分をないがしろにされた苦しみや虚しさが、心に沢山溜まっちゃってるんじゃないかな。
それも含めて、凪と話すしかないよね。凪を本当に大切に思っていることを伝えた上で、葵の本音を隠さず、凪の気持ちも否定せずに尊重しながら、少しずつ向き合っていくしかないんじゃないかな。でも…」
愛は、責めているように聞こえないよう、言葉を選びながら静かに続けた。
「葵に好きな人ができたってことは、今の話を聞くとなおさら、私は応援できない。誓約書があって離婚できないのに、今、葵に好きな人がいるってことが、浜本の家…お義母さんにバレちゃったら、さ。
体の関係がなくても、不貞だとでっちあげたりして、凪と完全に引き離されてしまう可能性もあるよね」
「それはわかってる。だからこれ以上の深入りは絶対にしない。だけど…」
「だけど?」
この記事へのコメント
姑は我が子の不祥事を知っているんだろうか。明るみになったら、本当に支援者いなくなるよ。葵や政治学者の女性は喋らないだろうけど、周りから漏れることもあるからね。