「どうだろ。ただ彼にとっては、“運命は変わっていくもの”って理屈らしいけど」
葵は茶化すように笑ったけれど、愛は、全く意味不明だよ、と顔をしかめた。
「たぶんあの人は…宏太郎さんは本質が情熱的というかロマンティストなんだよね。政治家としても男としても。だから今の相手と出会った時に、私では与えられない、“一緒に闘っていける”ような同志感に夢中になって惚れ込んじゃったみたい」
「それならただ、仕事の付き合いにすればよかっただけじゃないの?恋愛関係になる必要は全くないじゃん。…っていうかそもそも、どんな理由でも不倫は不倫」
吐き捨てるような口調になった愛も、元夫の不倫が原因で離婚している。
その苛立ちのまま、愛がワインクーラーからボトルを乱暴に引き抜くと、氷が豪快な音を立てて揺れた。
愛の好みの、樽香の強いシャルドネを、ほとんど減っていない葵のグラスに注ぎ足し、自分のグラスにも勢いよくなみなみと注ぐ。
そんなにイライラしないで、と、葵は愛をなだめるように言い、続けた。
「宏太郎さんって根が悪い人じゃないから厄介なのよ。人への愛情もそうだけど政治に対しても、むしろ純粋過ぎるというか。私も…あの人のそういうところを好きになったから。
本当に日本をよくしていきたいと思ってるし、そのためには何をしたらいいのか常に考えて自分のことは後回しにして動きまわっている。
凪はずっと、父親が女と遊んでいるから帰ってこないんだと思ってたと思うけど、仕事で飛び回ってることの方が多いから、家にいる時間が少ないというのも本当なんだよね」
確かに——浜本宏太郎という政治家は、“イケメン”というだけではなく、知識も能力も実行力もあるという評判で、有権者だけでなく他の政治家や有識者からも期待されているとはよく聞く話だ。けれど。
「自分のことだけじゃなく、家族も後回し、というか切り捨ててるけどね」
愛が、そうイヤミを言いたくなるほど、夫や父親としては最低だ。それなのに一番の被害者である“不倫された妻”の葵が、まるで仕方がないことのように説明できるのか、愛には理解できなかった。
「本気の人ができたとか言われたならなおさら…週に一度しか帰ってこない男と、どうして10年近くも離婚しなかったの?」
納得がいかない、と子どものように頬を膨らませ、ソファーの背もたれに体を投げ出した愛に、葵が、「ありがとね」とほほ笑んだ。
「何が?」
「私の代わりにそんなに怒ってくれて」
そして、今まで誰にも話せなかったけど、と続けた。
「なんで、離婚できなかったのか…愛にだけは、話させてもらっていいかな。秘密を共有してもらうことになっちゃうんだけど。大丈夫かな…?」
遠慮がちに弱まった語尾に、愛が「もちろん」と頷くと、葵は「ありがとう」とホッとした様子で、少し長くなってしまうけど…と話し始めた。
「本当はね。私、妊娠が分かった時、1人で産んで育てるつもりだったの」
「…ウソ」
そんな覚悟をしていたとは、愛も知らなかった。そもそも葵は、宏太郎との関係を誰にも話したことがなく、店で一番仲が良かった愛でさえ、結婚することが世の中に公表されてから初めて、2人が付き合っていたことを知ったのだ。
承認欲求や闘争心のない物静かなタイプで、客と駆け引きをする接客を一切しなかった葵は、売れっ子、というタイプではなかった。
けれど、葵を指名する客に、宏太郎のような政治家や大企業の幹部などが多かったのは、その口の堅さと誠実さを信用されていたということだろう。
「だから別れようとしたの。宏太郎さんには、一緒にいることにもう疲れた、って伝えて」
恋をしてはいけない人だったと、葵は身を引こうとした。日本の未来を本気で変える——その信念のために、政治家としての頂点を目指す宏太郎の夢を知っていたからだ。
「でも別れを拒まれて。君の気持ちが変わったとは思えないって。彼はとても勘のいい人だから。
それでも私から距離を置いた。妊娠も隠して、違う街に引っ越したし、彼からの電話にも一切出なかった。でも、バレちゃったの。彼、人を使って私の行動を見張らせてたみたい。それで、産婦人科に通っているところを見られたみたいで」
そこからは、もう、あっという間だったと葵が続けた。
「葵との子どもができて本当にうれしいよ、なんで隠すんだと。オレは絶対に君と結婚して、一緒に子どもを育てていくって」
それからの展開はマスコミに報じられた通りで、2人の関係は日本中に知られることとなった。
「結果的には、全く一緒に育ててないけどね」
宏太郎への怒りが抜けない愛に、葵が困ったように微笑む。
「凪っていう名前ね。嵐のような騒ぎの中で生まれてしまったあの子が、どうか少しでも穏やかに、優しい気持ちで生きていけますように——そんな願いを込めて、私が選んだ名前なの。
彼も、いいね、って言ってくれて。お義母さんは、“日本初の女性総理大臣にもふさわしい名前にしたい”って、有名な姓名判断の先生にお願いしようとしてたみたいなんだけど、彼が頑張って説得してくれて、私の意見を尊重してくれたの」
子育てだって、最初は彼なりには頑張っていたのよ、と葵は、愛に言い訳するように笑った。
「確かに彼は今と変わらず…全国を飛び回るような生活で、深夜の帰宅が多かった。でも、休みの日はずっと凪と遊んでくれたし、どんなに遅く帰ってきても、あの人、必ず凪の寝顔を愛おしそうに見つめながら、その横で一緒に眠ってた」
「休みは必ず3人で出かけてたしね」と、葵は懐かしげに目を伏せ、しばらく手をつけていなかった白ワインをようやく口にした。
「そんな彼が変わり始めたのが…ちょうど私が料理教室を始めた頃…で」
それは、凪が小学校の受験に合格した直後のことだったという。
この記事へのコメント
姑は我が子の不祥事を知っているんだろうか。明るみになったら、本当に支援者いなくなるよ。葵や政治学者の女性は喋らないだろうけど、周りから漏れることもあるからね。