妻の目を盗んで不貞を繰り返す夫。
夫の遺産にしか興味のない妻。
愛が一転して憎しみ合う夫婦。
相続。養育費。慰謝料。結婚。打算しかない契約。
来る日も来る日もそんな例ばかり見ていると、他人に対して全くと言っていいほど希望が持てなくなってしまうのだ。
それに僕自身、20代、30代でそれぞれ結婚してみた経験がある。
けれど、「社会的立場を固めるために、なんとなく結婚はしておいた方がいいかな」なんていう最初の結婚は、あっというまにダメになった。
押しに押されて事務の女性とした2度目の結婚も、子どももできる間もなくダメになった。事実無根のDVで裁判を起こされたのだ。僕に法律の知識がなければ、多額の慰謝料を取られることになっていたと思う。
そんなことばかりが続いていれば、誰かを本気で信じることができなくなっても、決して不思議ではないはずだ。
たまに女性と食事に行っても、高級なジュエリーをねだられたり、高価なデートを期待されたりするだけ。
疲弊していたのは、50代という年のせいではない。だけどその一方で、50歳を迎えてしまえば人間、おいそれと考え方を変えるのは難しい。
とにかく当時の僕は、心の底から思っていたのだ。
もう、50代。
いまさら何も、望むまい。と。
― 一生、ひとりで生きていく。
その決意を覆されたのは、凪沙と話すようになって半年が過ぎた頃だっただろうか。
「千葉さん!」
明るい声と共に、昼時のMTGに駆け込んできた凪沙…。その手に下げられていたのは、なんの変哲もないファストフードの袋だった。
「ね、千葉さんは嫌かもしれないけど…私のために一緒に食べてくださいよ。好きな人と食べるご飯って、何よりも美味しいから」
「……はあ」
やめろ、やめてくれ。
心が全力で叫んでいたのに、僕はなんの抵抗もできなかった。
差し出されたファストフードのハンバーガーに、しぶしぶ齧り付く。
そして驚きのあまり、一言も言葉を発せなくなってしまったのだ。
…凪沙から、確信をつく質問をされるまでは。
「千葉さん、美味しいですか?」
「……」
「美味しくなければ、私…潔く身を引きます。担当者も代わります。今までしつこくして、ごめんなさい」
「…いや…」
「え?」
「…ものすごく、美味しいです」
やめろ。やめろ。やめてくれ。
自分の叫ぶ声が、頭の中で響いている。だけどその理由は、はっきりとしていた。
本当はずっと惹かれていたのに、心を閉ざして凪沙を拒否していたのは、この美味しさに気付きたくなかったからだ。
僕はもう、50代の成熟した男だ。
ひとりで生きていく。
ひとりで生きていける。
せっかくそう思っていたのに、どうして今更になって──好きな人と食べる食事のおいしさを思い出さなくちゃいけない?
「千葉さん。美味しいって、思ってくれますか?」
「一緒にする食事が美味しいからって、なんだっていうんですか」
「だって、食事は毎日のことです。なんでもない毎日に小さな幸せが感じられるのって、最高じゃないですか」
「いや、でも…。僕は、バツ2ですし」
「私だって、好きな人がいたことがあります。当時は待つことしかできなかったから、今はこうして自分から言葉にすることにしたんです」
小さな事務所で交わされる不思議な攻防戦は、終わりがないように思えた。
― たしかに、なんでもない日が幸せなのは、いいな。
うかつにもそう思ってしまったけれど、折れる気はなかった。
だって、僕はもうこんなオジサンだ。彼女のことが好きならなおさら、気持ちに応えることはできなかった。
それなのに。
「でも僕と君じゃあ、あまりにも年齢が離れてるでしょう」
最後通告のつもりで放った言葉だった。それなのに彼女は──凪沙は、嘘みたいにケロッとした表情で、答えたのだ。
「年齢なんて関係ないですよ。もしかして、50歳だから自分の方が大人だ…なんて思ってます?
言っておきますけど、女からみれば、男の人はいくつになっても未完成みたいなものですからね」
少しの沈黙のあと、僕は思わず凪沙に尋ねた。
「…未完成?50代で?」
「そうですよ。可愛いもんです」
「可愛い?」
「あんな寂しそうな顔してお弁当食べちゃって。何歳だろうが、関係ないですよ。
私がこれからずっと、一緒にごはん食べてあげますよ───」
◆
弁護士として、嘘に向き合う毎日は変わらない。
だけど、52歳になった今も、凪沙は僕に嘘をついたことがない。
「ねえ、これ美味しいね!」
たどり着いた『琉球チャイニーズ タマ』で、僕の隣でニコニコと微笑んでいる。
凪沙と一緒に食べる食事は、バーでひとりで傾けるボウモアよりも、味覚と心を刺激してくれた。
僕は歳を重ねることに怯えたことは一度もないけれど、こうして妻と一緒に食事をとるたびに、2年前にタイムスリップしたくなる。
― 一生ひとりで生きていく。もう、50代なんだから。
そう悩んでいたあの頃の自分に伝えたいのだ。
だれかと食べる食事は、なによりも美味しい…ということを。
妻の膝の上には、僕があげた花束が咲き誇っている。
大きくもない、高価でもない、小さな花束。
だけど僕は、ときどきこうして妻に花束をプレゼントすることにしている。
なんでもない日を幸せにするために。
何歳になっても、素直な気持ちを伝えるために。
いくつになっても──まだ完成しない毎日の喜びを、積み重ねていくために。
Fin.
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この記事へのコメント
こういう希望持てる系の最終話は同世代の男性たちに刺さるんじゃないかな。彼女もお金目当てとは程遠い感じだし、いいね。