セルリアンタワーのバーを出た僕が向かったのは、渋谷駅の改札だ。
21時13分渋谷着の成田エクスプレスは、予定通りに到着したらしい。改札から溢れ出る人混みの中、真っ先に僕のもとへと向かってくる妻の姿を見つけることができた。
「義久さん!」
「凪沙、おかえり。どうだった?インドは」
「暑かったよ〜、でもすごく実りのある出張だった」
飛びついてきた妻の凪沙に、僕は尋ねる。
「何食べたい?帰国したばかりで疲れてない?」
「全然大丈夫。『琉球チャイニーズ タマ』はどう?ここからすぐだし、遅くまでやってるよね」
「いいね、久しぶりだな。行こうか」
これが、僕ら夫婦の日常だ。
インバウンド求人のプランナーを務める凪沙は、とにかく日頃から海外出張が多い。
できれば空港まで車で迎えに行ってあげたいところだけれど、こちらも仕事の日はそれも難しい。
そのためこうして、成田エクスプレスが停まる渋谷で待ち合わせてから、遅めの夕食に出かけるのだ。
都心であれば遅くにやってる店を探すことは難しくないし、大きな荷物は空港から豊洲の自宅まで送ってしまえばいい。
ほとんど手ぶらの凪沙の手を取り、渋谷の街を歩き出す。
2年前の僕には、とてもじゃないけれど考えられなかった状況だ。
そう。今こうして、妻という存在とふたりでディナーに出かけているなんて、2年前の僕には全く想像ができなかった事態だ。
というよりこれは、誰であれ想像しえなかった状況だと思う。その証拠に今日もまた僕たちは、周囲からときおり、チラチラと無遠慮な視線を投げかけられている。
平日夜21時の渋谷だ。手を繋いで歩くカップルはごまんといるから、視線を集めているのはそれが原因ではない。
僕たちが周りから注目を浴びる理由。それは、明らかに釣り合わない歳の差だ。
52歳の僕に対して、凪沙はまだ32歳。
歳の差20歳の僕たちが手を繋いでいる様子は、ひどく奇異な光景に映っているのだろう。
― 当然だよなぁ。俺だってまさか、こんな年下の子となんて…。
蒸し暑い夏の夜は、なぜだか人を懐かしい気持ちにさせる。
そんなことを思いながら僕は、自然と凪沙と出会った頃のことを思い返していた。
◆
「千葉さん。ひとりで食事するのって、つまらなくないですか」
「はあ、別に」
それが、凪沙と交わした初めての会話らしい会話だ。
事務所のデスクでコンビニ弁当を広げる僕を、厳しい顔で見つめる凪沙の顔。その顔がなんだか妙に大人っぽくて、不思議な感覚が胸に広がったことを覚えている。
当時の僕と凪沙の関係は、ただの弁護士とクライアントというだけだった。
凪沙が役員を務める企業の担当弁護士として、八丁堀の事務所でときおり顔を合わせてミーティングをするだけ。
それでも凪沙は毎回、僕を熱心に食事に誘ってくれつづけたのだ。あけすけな好意の言葉と共に。
「ひとりで食事するなんて、絶対つまんないですよ。ね、私、千葉さんのこと好きなんです。一緒にご飯行きませんか」
「いや、別に。ひとりの方が気楽ですね。それに、年が離れ過ぎてますよ。お気持ちはありがたいですけど」
その言葉に、嘘はなかったつもりだ。
20代で司法試験に合格し、50代まで弁護士なんて仕事を続けていれば、大抵の人なら境地に至ってしまうと思う。
他人なんて、煩わしいだけ…という境地に。
この記事へのコメント
こういう希望持てる系の最終話は同世代の男性たちに刺さるんじゃないかな。彼女もお金目当てとは程遠い感じだし、いいね。