「私はデジタルじゃなくて画用紙の上に描くのが好きで。デザインのスケッチブックがたぶん5冊くらいはあったかと思います」
今となれば…なにかの証拠にもなったかもしれないスケッチを、全て渡してしまうなんて愚かな行為だったのだろう。でもあの頃の桃子は。
「会社に小さなアトリエがあるんです。デザイン室というよりはミシンがあって、試作ができる道具が置いてある場所が。そこで彼と過ごせる時間が本当に尊くて。
沢山の生地のサンプルの中からどれがいいとか、刺繍の位置はもう少しだけずらそうとか、そこで2人で過ごして服のことばかり考えていました。そして休みにはデートをして、一緒に夜を過ごす。…本当に夢みたいでした」
空になったグラスをぎゅっと握った桃子に、ともみがおかわりを聞いた。思考が回らぬ様子で、おすすめのお酒を…と頼んだ桃子に、ともみが優しく頷く。
「そのうちに、私のデザインやアイディアが混じった服が、Vérité/Nの作品として発表されていくようになりました。周囲には、私のアイディアだとは伝えてもらえていなかったのは知っていましたけど、使っていいかとは聞いてもらえていましたし、私も採用されたことがうれしくて。
それに彼も、これは桃ちゃんとオレの2人の作品だからと。来シーズンには、桃ちゃんの名前を出して、オレとのWネームの新しいカジュアルラインを作ろうと言ってくれて。いきなり桃ちゃんをメインにするのは無理だけど、オレとのWネームなら周りも納得するだろうし、って。
私は信じられなかったんですけど、それくらいの才能は桃ちゃんにあるよ、って言ってくれて…でもその約束の来シーズン…今シーズンの服のコンセプトが発表されたとき…コンセプトもデザインも私のスケッチそのもので。しかも勝手に使われてしまったんです」
「きっと、これだね」
ルビーが携帯で検索した記事には、誇らしげにほほ笑み、きっと身振り手振りでコンセプトを熱弁している所を切り取られたのであろう永井の写真と共に、『Vérité/N 新境地開拓で人気再燃。テーマは“風に抗わない線”』というタイトルが付けられていた。
弱々しい笑顔で頷いた桃子が続ける。
「彼が初めて私の許可なく…私がこのテーマで書き溜めていたドレスたちも、全て形にして発表してしまったんです。もちろん私の名前はどこにもなくて、自分だけで作り上げた作品として」
ルビーがそっと携帯をカウンターに置きスクロールすると、淡い水色や桜のつぼみのような薄紅色が使われた、ドレープの美しいワンピースやシャツたちの写真が次々と出てきた。
「でも急にどうして?それまでは使う前に桃子さんに相談していたんですよね?」
酒を作りながらのともみの問いに、桃子が眉を寄せた。
「あの人が会社に訪ねてきたからだと思います」
「あの人とは?」
「彼とずっと付き合っていたっていう…女優さんです。あの夜、会社の前で待っていらっしゃったみたいで、私と彼が会社を出た瞬間に車から降りてこられて」
あの女優のことだと、光江から情報をもらっていたルビーは理解したが、口にはしなかった。30代半ば。テレビやドラマでは脇役が多いが、ファッション誌の常連でスタイルの良い、いわゆる“おしゃれな場所に呼ばれる”女優だ。
「永井さんがすごく慌てて。私に何かを説明しようとしたんですけど、その前に彼女が彼の腕を引っ張って、車に乗せていなくなってしまって。私は状況が分からないままだったんですけど、そこから彼の態度が…」
「変わったんだ?」
「はい。仕事中も最低限の会話だけになり、2人だけのデザインの勉強会もなくなりました。そしてしばらくして新しいアシスタントが雇われて、私の仕事は、業者さんとのやりとりとか…事務仕事だけになったんです」
デザインの話もプライベートの話もできなくなって、2人きりになることをとにかく避けられるようになって…と桃子の声は尻すぼみに細くなった。
「なんとか彼を捕まえて聞くと、もう2人では会えないと言われました。彼の態度が変わったきっかけ…思い当たるのがあの女優さんの登場しかなかったので、彼女と関係あるのかを聞いたんです。そしたら…」
言葉に詰まった桃子の前に、ふわっと柔らかい香りのティーカップが置かれた。
「ジャスミンティーのリキュールにミルクを合わせたものです。お酒ですが、ジャスミンミルクティーのような味わいを楽しんでいただけるかと」
高揚を落ち着かせ、癒やし効果のあるジャスミン。桃子はお礼を言うと一口味わい、その優しい味に励まされたようにその先を続けた。
「その女優さんとは長い付き合いで、もうすぐ結婚する相手だと言われました。私は信じられず、じゃあ私は?って聞いたんですけど、でも、もう会わない、の一点張りで。私…あまりその後の記憶がないんです。
その日もどうやって帰ってきたのかわからなかったんですけど、気がついたら自宅にいて。涙も出ませんでした。何も感じず、何も考えられない。でも朝が来たら出社する…そんな毎日の繰り返しになりました。
彼に会うのもなんだか怖くて、会わないようにアトリエの周辺にはいかず、ただ淡々と事務仕事をこなしていました。彼も私と接する機会をさけていたんでしょう。幸い、最低限しか顔を合わせずすんでいたんですけど、一か月くらいたって…」
「さっきの…次のシーズンのコンセプトが発表されたんですね?」
はいと頷いた桃子の顔に、うっすらと怒りの色が浮きあがった。
「私の中で、何かが爆発しました。もう頭も心もどす黒いものに占拠されて、その衝動を抑えられなくなって。
その勢いのままに、彼を家の前で待ち伏せして問い詰めたんです。私からもう何も奪わないで、これ以上、私はもうあなたに何も与えない、返して!返して!返して!って…」
でもその衝動的な行動が裏目に出た。興奮して彼を揺さぶり、その胸を拳で叩いた桃子は永井のマンションの警備員に取り押さえられてしまったのだ。
この記事へのコメント
恋してた日々を否定したくない気持ちは勿論理解出来るけど、そこに執着するのも辛いだけだから。愚かだった自分を認めて出来る限りの復讐をしたらスッキリするかも。 ルビーの提案は光江さんが考えた事かもね! 早く続きを読みたい....
永井は寒い冬の日に歩いていたら突然春風が吹いてその時にいきなり思いついた って。無理あり過ぎ。もはやそれ春風じゃなくて自動ドアが開いた時とかに出た暖房のエアーじゃない? 俺の服を分かる人だけ着ればいいとかちゃんちゃ...続きを見るらおかしい。