2024.11.20
東京レストラン・ストーリー Vol.38エマが化粧をすすめると、ヒナタはいつも決まってこう答える。
「あたしはいいよぉ、今のままで」
デザイン事務所のアートディレクターという肩書のヒナタは、世間一般で求められる“社会人の身だしなみ”を求められる立場にはない。そのこともあり、ヒナタはいつだって碌なメイクもせずに、そばかすだらけの顔でヘラヘラと笑っているのだった。
おしゃれも適当。手入れも適当。メイクはもちろん、香水の一振りだってしようとしない。気楽を通り越して自堕落にも見えるヒナタを見ていると、エマはイラつかずにはいられなかった。
ルームシェアを始めてもうすぐ1年半という月日がたつ今、エマはすっかりヒナタのことが苦手になりつつあるのだった。
込み上げてくるヒナタへのイライラに耐えられなくなったエマは、肘掛けから立ち上がると浴室へと向かい、バスタブの蛇口をひねった。
お湯が溜まる間に、ミキサーに冷凍のアサイーやベリー、バナナを放り込み、スムージーを作る。ひと瓶2万円近くする酵素ドリンクも入れているから、きっと、昨晩の毒素をデトックスしてくれるはずだ。
― それにしても、昨日の食事会はほんと疲れたな…。
冷たい特製スムージーを飲みながら、エマは深いため息をつく。
昨夜行われた同僚の女の子主催の食事会は、野球選手との焼肉というだけあってか、かなり激しい飲み会の様相を呈した。解散も遅く、普段食べない油っぽい肉をたんまりと食べたせいで、体も重い。身体中に疲れが残っていた。
お肌のことを考えれば、ノンアルコールで22時までには就寝したい。だけど、化粧品会社というのは女の世界だ。付き合いを疎かにして、いつのまにか四面楚歌…という状況だけは避けるべきだろう。
それに、女性として生まれた以上、高スペックの男性と恋もしたい。30になる前に結婚。そのためには、昨日みたいに気乗りのしない相手に対しても、いつだってニコニコとしている方がチャンスは多いだろう。
それが、大学進学を機に福井から上京してきたエマの考え方だった。
― そうよ。だから私は、ヒナタみたいに気を抜いてなんていられない。
そんなボヤキを残りのスムージーと一緒に飲み干してしまうと、エマはまだ寝息を立てているヒナタを横目に再び浴室へと向かう。疲れとスムージーですっかり冷えきった心と体を、はやくエプソムソルト入りの半身浴で温め直したかった。
「はあ〜。それにしても、昨日ヘトヘトで帰ってきたのにちゃんとメイク落としてる私、エライ!」
湯船に浸かりながら、エマは手鏡でじっくり自分の顔をチェックする。
「女は、一瞬たりとも気を抜いたら終わりよね。今日はちょっと体がむくんでるし、胃腸を休ませるためにこの後はプチ断食…」
と、そこまで独り言を言いかけて、エマはハッと息を飲んだ。
鏡の中に見える、自分の顔。少しむくんだまぶた。少々丸いのがコンプレックスの鼻──の、その少し横に、うす茶色いくすみが見える。
「うそ。やだやだやだやだ…」
湯船からザバッと体を起こし、悲鳴を上げる。
「シミ!!!!!
うそでしょ…普段こんなに気をつけてるのに…?」
うす茶のくすみは、まごうことなきシミだ。ヒナタのそばかすとまではいかないまでも、手入れに手入れを重ねて陶磁器のように白くなった肌の上で、存在を主張している。
しばらくじっと手鏡を凝視していたエマは、今度は反対に、全身の力が抜けたようにヘナヘナと湯船の中に体を沈めた。
もう30分は漬かっているというのに、つめたく冷えきった体は、ちっとも温かくなる気配がなかった。
と、その時だった。
「エマぁ?」
浴室の外から気の抜けた声が聞こえる。どうやら、ソファで寝込んでいたヒナタがようやく目を覚ましたらしい。
「大丈夫〜?なんかすごい声聞こえたけど…」
そう言うやいなやヒナタは、躊躇なく浴室のドアを開けた。そばかすだらけの呑気な顔がのぞく。
「ちょっと、急に開けないでよ…。別になんでもないから、ほっといて」
エマは精一杯冷たく言い放ったつもりだったが、どうやらヒナタにはその冷たさは伝わっていないようだった。
それどころか、言葉の意味すら伝わっていないらしい。ふてくされた表情をうかべるエマとは反対に、ヒナタはそばかす顔をニコニコさせながら言う。
「ねえ、お昼食べに行こうよ。今日エマお休みでしょ?この時間なら“あのお店”、入れると思うんだぁ」
◆
湯上がりの肌に日焼け止め程度の薄いメイクでヒナタの誘いに乗ってしまったのは、許すことのできないシミを見つけて自暴自棄になっていたから、としか言いようがなかった。
けれど、鼻歌交じりのヒナタの後ろを歩きながら、エマの胸にはどんどん後悔の念が湧いてくる。
それというのも、原宿の外れに位置する2人のマンションを出てから、ヒナタの足はどんどん竹下通りの方へと向かっているからなのだった。
「ねえヒナタ。私、ファストフードとかは絶対嫌だからね!ヒナタとちがってすぐに太るし、ニキビとかできたら最悪だし」
「うんうん、わかってるよ〜。こっちこっち」
抑えきれないイライラで悪態をつくが、ヒナタはそんなエマの態度などどこ吹く風だ。ぐんぐんと歩みを進め、ついには若者や外国人で溢れる竹下通りの中へと入っていってしまうのだった。
通りにひしめく、美容に悪そうなスイーツやジャンクフードの数々。
見ているだけで憂鬱になる上に、ひゅうと吹き抜ける秋の風が、エマの体を芯からいっそう凍えさせる。
もはや、福井にいた頃から熱烈に憧れていた、原宿そのものまで嫌になりそうだった。
― あ〜もう、なんでヒナタについて来ちゃったんだろう!メイクも香水もしてなくて恥ずかしいし、今日はもうプチ断食するって決めてたのに…。
そう心の中で悪態をつくエマだったが、ふとヒナタの足が、一本裏の路地へとズレたことに気がついた。
「エマ、ここだよ〜。よかった、入れそう」
ニコニコと微笑みながら、ヒナタが指差す方向。
そこには地下へとのびる階段と、古風な字体で『蕎麦』と書かれた、竹下通りらしからぬ看板が立っているのだった。
しかし、レストランストーリーは人気連載なのにPR記事の下に埋もれていて危うく見逃すところでした!
来週から月曜の毎週更新になるのかな?楽しみ♡
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