朝食を済ませたあと、旅館からすぐ近くのカフェに行った。気さくな感じの初老の女性オーナーと会話をしていると、驚くことに同じ業種だということがわかった。
彼女は早期リタイアして、父親が買ったという別荘があった湯河原で、カフェを始めたという。ちょうど男女雇用機会均等法が制定されたときの入社で、“女性活躍”という名のもとに仕事にまい進し、30代半ばの頃に結婚をしたらしい。子育てを終え、そして夫となった人も10年前に亡くなり、この地でカフェを始めたようだ。
人見知りの南帆にしては珍しく彼女に心を開き、思わず聞いてしまった。
「結婚して……よかったですか?」
これを聞くと、たいていの既婚者は言葉を濁す。でも彼女はまっすぐ前を見て、そしてふんわりと目をほころばせ、こう言ったのだ。
「すごくよかったわ。もう亡くなっているからかもしれないけど……。若い頃は恋愛もたくさんしてきたのよ。海外にいっぱい出張があったから、その土地で彼氏ができたりしてね。あ、旦那が聞いてないかな…」
キョロキョロする彼女はとてもチャーミングで、南帆は心がじんわりと温かくなった。亡くなった夫とともに、彼女は今も生きているのだとはっきりわかった。
南帆は思わず、今回の“ポテトサラダ事件”のことを彼女に話した。すると彼女はこう言った。
「なぜ、彼に合わせて無理をしているの?彼のことが好きなのだったら、嫌なことはイヤ、とはっきり言ったほうがいいわ」
彼女はそうきっぱり言った。
「でも…料理くらいできなきゃって思って」
「彼がそう言ったの?人間関係のすれ違いは、ほとんど自分の思い込みからよ」
そう言われてはっとした。
南帆は驚き、思わず黙り込んだ。彼女の言葉が胸に響いた。自分の中で抱えていた「結婚観」や「女性らしさ」、それに縛られていたのは他でもない、自分自身だったのかもしれない。
「自分の思い込み…」
南帆は小さく呟いた。女性オーナーは微笑みながら、続けた。
「結婚も恋愛もね、相手を変えようとしたり、自分を無理に変えるものじゃないのよ。大切なのは、2人がどうやってお互いに正直でいるかってこと。
私も若い頃は、夫に期待しすぎたり、自分が良妻であろうと必死だったわ。でもね、夫が病気になった時、わかったの。彼が欲しかったのは、完璧な妻じゃなくて、ただそばにいてくれるパートナーだったって」
オーナーは遠くを見るような目で続けた。
「結局、一緒に笑って、時には喧嘩して、お互いの弱さを知って、それでも支え合う。それが結婚よ。料理ができるとか、家事が完璧だとか、そんなことは後からついてくるもの。あなたが大事にすべきなのは、彼とあなた自身の心の距離をどう近づけるか、だと思うわ」
その言葉に、南帆は深くうなずいた。
いつも亮平に「良い彼女」であろうとしていたが、それは自分の理想を押し付けていたにすぎなかったのかもしれない。亮平は、ただ一緒に過ごし、笑い合い、時には肩の力を抜いてリラックスする時間を求めていたのではないか。
「彼が欲しかったのは…私の完璧さじゃなくて、ただの私…」
南帆は急に亮平に会いたくなった。彼に、自分の素直な気持ちを伝えたい。彼のために何かをすることより、もっと自分らしくいられる関係を築きたいと思った。
オーナーは南帆の表情の変化を感じ取り、優しく微笑んだ。
「自分を大事にしながら、相手を大事にする。それが長く続く関係の秘訣よ。焦らなくてもいいの。自分がどう感じるかを大切にしてね」
南帆はその言葉を胸に刻み、カフェを後にした。自分を偽ることなく、もっと自然体で亮平と向き合う。そう決めた瞬間、心の中のモヤが晴れていくような気がした。
◆
宿に戻り、帰り支度をしながら南帆は考えていた。
亮平にちゃんと伝えよう、いやなものは嫌だ、と。
いままでずっと、自分にも彼にも、不誠実なことをしてきたのかもしれない。
亮平が私のことを、嫌になる可能性だってある。それは彼の自由だ。
私はいままでずっと一人だったし、一人だって生きていける。でも人生で初めて「結婚したい」という感情を教えてくれた人。
少しの怖さもあるが、きちんと向き合ってみようと決意してチェックアウトを済ませて宿から出た。すると……。
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この記事へのコメント
本当そうだよねぇ。
実在する旅館名が出てないという事はこれも普通の小説枠!? 来週が楽しみ&今後に期待♡