南帆が家を飛び出し、息が切れるほど歩いた後、不意にスマホが震えた。画面には「編集長」の名前が表示されている。こんなときに、と思いながらも電話に出た。
「お疲れさまです」
「今日休みだって?最近ちょっと調子が悪そうだな。何かあったか?」
編集長の声はいつも通りだが、心配している様子がにじみ出ている。普段は冷静で仕事一筋の編集長が、こうやって気にかけてくれるのは珍しいことだった。
「ありがとうございます。大丈夫です。少しリフレッシュしたくて外に出ています。校了は無事終わって問題ありませんのでご安心ください」
「そうか。俺もこの業界で長くやってきたけど、人は何かに向かっている時こそ、一番悩むもんだよ」
その言葉に、南帆の心が少し温かくなった。編集長はあまりプライベートなことには干渉しない人だが、今日は特別に感じられた。
「ありがとうございます。編集長の言葉、心に留めておきます」
「しっかり休んで戻ってこい。何かあれば、遠慮なく言えよ」
電話を切った後、南帆は編集長の温かさに少し驚きながらも、心が軽くなったのを感じた。いつも自分を追い詰めてばかりだったが、少し肩の力を抜いてもいいのかもしれない。
◆
― 同棲自体、無理しすぎちゃったのかもしれない。
横浜駅で買った崎陽軒のシウマイ弁当を「踊り子」号で食べながら、そんなふうに考える。南帆は、昨夜勢いで予約した、湯河原にある老舗の温泉旅館に向かっていた。
そもそも亮平とは、食事に対しての考え方がまるで違う。
理屈っぽいと自分でもわかっているが、南帆は、食事は栄養を効率的に摂取できればよい、と考えるタイプ(特に平日は)だ。
だが同棲して3ヶ月目にしてようやく分かってきたのだが、亮平は違った。
そうでなきゃポテトサラダを食べたい、なんて言わないだろう。ポテトサラダなんて、亮平に言われるまで存在を忘れていたくらい。“サラダ”というのは名ばかりで、糖質と脂質のかたまりのように思える。
その割に作るのが手間だ。
じゃがいもをふかして、キュウリを塩で揉みこみ水分をしぼり、玉ねぎを薄切りにし水につけ、それらを混ぜ合わせてちょうどいい味付けにしなくてはならない。同棲して一度だけ作ったのだが、もう二度と作るものか、と思ったのをよく覚えている。
そんなことを考えていると、あっという間に湯河原駅に到着した。横浜から特急で50分ほど。呆気なさすぎるほどだった。
「いらっしゃいませ」
旅館に到着すると、受付にいた女性がにっこりと微笑みかけてくれた。海外旅行が好きな南帆は普段から外資系のホテルに好んで泊まるが、今回は旅館にしてよかった、と心から思う。
部屋に案内されると、さっそく備え付けの源泉かけ流しの露天風呂に身を沈めた。その瞬間、体がじんわりと温まり、旅の疲れが溶けていくのがわかる。湯けむりがふわりと立ち上がり、静寂の中に聞こえるのは、湯の流れる音だけ。時折、開けた窓から虫が鳴く声が遠くに聞こえ、まるで自然と一体になったような感覚に包まれる。
風呂から上がると、ちょうどいい具合にお腹が空いていた。
旅館内のレストランに足を運び、一人静かに和食のコースを楽しむことに決めた。初めは、一人でフルコースなんて贅沢すぎるかなと少し迷ったが、他にすることもない。せっかくの機会だから、時間をかけてゆっくりと味わうことにした。
まず運ばれてきたのは、丁寧に盛り付けられた先付け。器にほんの少し乗せられたひと口の料理が、食事の始まりを優雅に告げる。次に、お吸い物の蓋を開けると、湯気とともに上品な出汁の香りがふわりと立ち上り、心がほぐれていく。しっかりとした風味ながら、どこかほっとする味わいだ。
そして八寸。目の前に出された小皿の数々には、鮮やかな彩りが並んでいた。小茄子とかぼちゃ、ゴボウと銀杏。それぞれ、煮方や焼き方が微妙に異なり、ひと口ひと口が違った表情を見せる。どれも素材の味を最大限に引き出し、薄味ながらも豊かな風味が口いっぱいに広がる。
料理の繊細さに思わず驚き、こんなにも丁寧に作られた料理を前にして、自然と料理人の顔を思い浮かべてしまった。
「料理って、人の気持ちが伝わるんだな…」
静かな夜の空気とともに、心の中で亮平の面影が静かに揺れる。
八寸を食べ終えると、鰻の蒲焼きと白焼きが運ばれてきた。いつもの癖で、取り皿に分けそうになる。
― あ、今日は1人で両方食べるのか……。
この記事へのコメント
本当そうだよねぇ。
実在する旅館名が出てないという事はこれも普通の小説枠!? 来週が楽しみ&今後に期待♡