2024.07.03
マティーニのほかにも Vol.6周囲に公言したことはないが、リサはバーが苦手だ。
もともとあまりお酒が得意ではない、というのも理由の一つではある。
けれどそれだけではなく、舞台女優として駆け出しの頃に起きた、ある辛い経験を思い出してしまうからなのだった。
と、自覚しているものの、体と心がいつも同じ方向を向いているとは限らない。
― でも、なんか少しお腹に入れたいな…。
口に合わなかった機内食をスキップしてしまったせいで、とっぷりと夜も更けた今、リサの胃袋は声高に空腹を訴えていた。
日本に着いたら久しぶりに本物のラーメンを食べるのを楽しみにしてはいたが、流石にこの時間のラーメンは、体が資本の女優としては気が引ける。
― 仕方ない。このまま我慢してても、寝られそうにもないもんね。
そう割り切ったリサは、スマホで一通だけメッセージを送ると、思い切ってベッドから起き上がる。
そして、ソワソワと浮き足立ちながらも、ホテル最上階のバーに向かって歩き出すのだった。
「わあ、綺麗…」
リサが通されたカウンター席からは、ガラス壁いっぱいに広がる東京の夜景が見渡せた。
まるで、バケツいっぱいのダイヤモンドを、あたり一面に撒き散らしたような煌めき。
でも、その煌めきを見てリサの心に湧き起こるのは、美しさに対する感動ではなかった。
― この中に、ヒデがいるのかな。
ヒデ。「恋人」と呼んでいいのかもわからない曖昧な関係だったけれど、本当に大好きだった人。
そして…心から愛していたのに、ひどい裏切りで失ってしまった人。
東京の夜景を目にして感動の代わりにリサを襲うのは、ヒデに対する、胸を締め付けるような悲しみと罪悪感だ。
「ご注文は?」
沈鬱な表情を浮かべるリサに、若いバーテンダーがオーダーを尋ねる。
ハッと我に返ったリサは、軽食のナッツとスモークサーモンを頼んだあと、少し言い淀みながら口を開いた。
「シャーリーテンプル…」
「はい、シャーリーテンプルですね」
けれど、次の瞬間。リサは、自分の中の闇から目を逸らしきることができずに、その注文を取り消す。
「ごめんなさい、やっぱりシャーリーテンプルじゃなくて…」
「はい、ではなくて?」
「ダーティーシャーリーって、できますか…?」
「かしこまりました」という快い返事のあと、時間を置かずにバーテンダーが差し出したのは、キュートなピンク色をした、ジュースのように可愛らしいロングカクテルだ。
ダーティーシャーリー。見た目は全く、シャーリーテンプルと変わらない。
けれど、グレナデンシロップとジンジャーエールをステアしたノンアルコールカクテルであるシャーリーテンプルとは違い、ダーティーシャーリーにはウォッカが入っている。
しばらくその可憐なピンク色の美しさを眺めたあと、リサはグラスを小さく傾ける。
口に広がるジンジャーエールのフレッシュな爽やかと、グレナデンシロップの甘さ。
そして───その眩いばかりの無垢さを、ウォッカの苦味が鋭く刺し貫く。
― やっぱり今の私には、シャーリーテンプルじゃなくてこれがお似合いだわ。
一口、また一口と飲み進めるごとに、思い記憶の扉が徐々に開いていく。
気がつけばグラスは半分になり…。
12年前のあの苦い体験を今、リサはハッキリと思い出してしまっていた。
◆
いつものようにヒデと会う約束をしていた、12年前のあの日。
リサがいつものバーに到着したのは、いつもよりもずっと遅い時間だった。おそらくヒデは、1時間は待たされていたことになると思う。
「ヒデ、おまたせ…」
「リサ!遅かったな」
到着した途端、ヒデはパッと顔を輝かせる。
嬉しそうにリサを見つめるその表情は、深い愛情だけではなく尊敬までもが滲んでいて、まるで尻尾を振り回す大型犬のようだ。
ヒデは、自分を愛している。キラキラした瞳で夢をみる自分を、尊敬している。
その気持ちが痛いほど感じられたリサは、ヒデの想いをまっすぐ受け止めることができずに視線を落とした。
すでに空になりかけてチェリーしか入っていない、マンハッタンのグラスに。
「今日もダンスの練習だったんだろ?いつもより随分遅くまで頑張ってたんだな、お疲れさま」
「あ…」
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