マティーニのほかにも Vol.6

20代の頃の元彼が忘れられない。思い出の場所で感傷的になった37歳女は思わず勢いで…

周囲に公言したことはないが、リサはバーが苦手だ。

もともとあまりお酒が得意ではない、というのも理由の一つではある。

けれどそれだけではなく、舞台女優として駆け出しの頃に起きた、ある辛い経験を思い出してしまうからなのだった。

と、自覚しているものの、体と心がいつも同じ方向を向いているとは限らない。

― でも、なんか少しお腹に入れたいな…。

口に合わなかった機内食をスキップしてしまったせいで、とっぷりと夜も更けた今、リサの胃袋は声高に空腹を訴えていた。

日本に着いたら久しぶりに本物のラーメンを食べるのを楽しみにしてはいたが、流石にこの時間のラーメンは、体が資本の女優としては気が引ける。

― 仕方ない。このまま我慢してても、寝られそうにもないもんね。

そう割り切ったリサは、スマホで一通だけメッセージを送ると、思い切ってベッドから起き上がる。

そして、ソワソワと浮き足立ちながらも、ホテル最上階のバーに向かって歩き出すのだった。


「わあ、綺麗…」

リサが通されたカウンター席からは、ガラス壁いっぱいに広がる東京の夜景が見渡せた。

まるで、バケツいっぱいのダイヤモンドを、あたり一面に撒き散らしたような煌めき。

でも、その煌めきを見てリサの心に湧き起こるのは、美しさに対する感動ではなかった。

― この中に、ヒデがいるのかな。

ヒデ。「恋人」と呼んでいいのかもわからない曖昧な関係だったけれど、本当に大好きだった人。

そして…心から愛していたのに、ひどい裏切りで失ってしまった人。

東京の夜景を目にして感動の代わりにリサを襲うのは、ヒデに対する、胸を締め付けるような悲しみと罪悪感だ。

「ご注文は?」

沈鬱な表情を浮かべるリサに、若いバーテンダーがオーダーを尋ねる。

ハッと我に返ったリサは、軽食のナッツとスモークサーモンを頼んだあと、少し言い淀みながら口を開いた。

「シャーリーテンプル…」

「はい、シャーリーテンプルですね」

けれど、次の瞬間。リサは、自分の中の闇から目を逸らしきることができずに、その注文を取り消す。

「ごめんなさい、やっぱりシャーリーテンプルじゃなくて…」

「はい、ではなくて?」

「ダーティーシャーリーって、できますか…?」


「かしこまりました」という快い返事のあと、時間を置かずにバーテンダーが差し出したのは、キュートなピンク色をした、ジュースのように可愛らしいロングカクテルだ。

ダーティーシャーリー。見た目は全く、シャーリーテンプルと変わらない。

けれど、グレナデンシロップとジンジャーエールをステアしたノンアルコールカクテルであるシャーリーテンプルとは違い、ダーティーシャーリーにはウォッカが入っている。

しばらくその可憐なピンク色の美しさを眺めたあと、リサはグラスを小さく傾ける。

口に広がるジンジャーエールのフレッシュな爽やかと、グレナデンシロップの甘さ。

そして───その眩いばかりの無垢さを、ウォッカの苦味が鋭く刺し貫く。

― やっぱり今の私には、シャーリーテンプルじゃなくてこれがお似合いだわ。

一口、また一口と飲み進めるごとに、思い記憶の扉が徐々に開いていく。

気がつけばグラスは半分になり…。

12年前のあの苦い体験を今、リサはハッキリと思い出してしまっていた。



いつものようにヒデと会う約束をしていた、12年前のあの日

リサがいつものバーに到着したのは、いつもよりもずっと遅い時間だった。おそらくヒデは、1時間は待たされていたことになると思う。

「ヒデ、おまたせ…」

「リサ!遅かったな」

到着した途端、ヒデはパッと顔を輝かせる。

嬉しそうにリサを見つめるその表情は、深い愛情だけではなく尊敬までもが滲んでいて、まるで尻尾を振り回す大型犬のようだ。

ヒデは、自分を愛している。キラキラした瞳で夢をみる自分を、尊敬している。

その気持ちが痛いほど感じられたリサは、ヒデの想いをまっすぐ受け止めることができずに視線を落とした。

すでに空になりかけてチェリーしか入っていない、マンハッタンのグラスに。

「今日もダンスの練習だったんだろ?いつもより随分遅くまで頑張ってたんだな、お疲れさま」

「あ…」

この記事へのコメント

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No Name
そんな事があったのね。でもそのプロデューサーの力ではなく自力でここまで来たのだからもう忘れていいと思う。
2024/07/03 05:2727返信1件
No Name
未練タラタラとかではないけど何となく心に残ってる人は誰にでもいるような気がする。テオにはバレなかったけれどヒデを裏切った罪悪感をずっと抱えてバーで当時の気持ちが蘇って感傷的になってしまったんだね。 切ないストーリーだったけれどテオのキャラがちょっと。普通に日本で生まれ育ったオラオラ系のアラフォーおじさんのようでそこだけちょっと残念。
2024/07/03 05:3820返信1件
No Name
ヒデは本当に懐深い良い男だね
2024/07/03 08:397
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