2024.05.07
今日、私たちはあの街で Vol.12◆
翌週の木曜日。直子は弾む足取りで『春秋ツギハギ』に到着した。
出会った街・日比谷にあり、日本の食と美味しいワインのマリアージュを楽しめるということでアルノーが見つけてきたのが、この店だったのだ。
照明をほんのり落とした優雅な空間を前にして、期待と背徳感が入り混じる。
― 来ちゃった。こんなお洒落なところで異性と食事、いいのかな…。いや、ここまで来たんだから、行っちゃえ!
胸を高鳴らせながら入店し、予約してくれたアルノーの名を告げる。
けれど、そんな直子に店員が返したのは、予想外の言葉だった。
「お連れ様2名、お待ちです」
― うん?2名…?
席へ案内されると、そこにいたのはアルノーだ。そしてその隣に、ひとりの女性が座っている。
「直子さん!元気でしたか。紹介します、僕のパートナーの美玲(メイリン)です」
「直子さん、はじめまして。突然ごめんなさい。彼から直子さんの話を聞いて…私が会ってみたいとお願いしたんです」
思いもよらない人物の登場に、直子は動揺とほのかな落胆を感じた。
― 私、心のどこかでアルノーとの進展を期待していたのね…。
淡い期待に対する恥ずかしさで赤らんだ顔をごまかそうと、直子は美玲へ満面の笑みを向ける。
「直子です。素敵な彼女を紹介してもらえるなんて…嬉しいです!はじめまして」
そんな直子の様子に美玲は安心したのか、ディナーは和やかな雰囲気で始まった。
ゆっくりと食事を楽しみつつ、酒好きなアルノーが2本目のワインを注文したところで、美玲が切り出す。
「あの、今日は割り込むようなことをして失礼しました。直子さんがどんな女性か気になってしまって…」
「失礼なんて…私は美玲さんに会えて嬉しいわ。今日は3人で美味しいもの食べよ!」
「ありがとう。直子さん…綺麗で素敵な方ですね。アルノー、ちょっとは気があったんじゃないの?」
「やましいことは何もないよ。だから今日美玲を連れてきたんじゃないか。確かに直子さんは素敵だけど…」
しどろもどろになるアルノーを横目に、美玲は柔らかな微笑みを浮かべながら言う。
「はいはい。でも実は私も、日本に来たばかりで友達が欲しかったんです。直子さんに対してただ嫉妬したわけではなくて、街中で友達を作れるアルノーが羨ましくて…」
思ったことをストレートに口にしながらも笑顔を交わすアルノーと美玲は、とても幸せそうだ。
― 素敵だなぁ、ふたりの関係。
直子は思う。自分と孝一は、こんな会話ができるだろうか。
6年も費やしてきた関係。後戻りはできない。前に進む。それだけを考えていた。
しかしいつからか孝一とは…お互いに目を背け、徐々に遠くへ向かっている気がする。
― 私と孝一は、いつ繋いだ手を離してしまったんだろう。
ぼんやりとそんなことを考えていると、自然と直子の口からは本音が溢れていた。
「私からすれば、美玲さんとアルノーのふたりともが羨ましいよ。信頼関係で結ばれたパートナーって、本当に貴重だと思う」
バツが悪そうにふたりが笑う。
「そうですか?僕たちもいろいろあったんですよ…」
「はい。でも話し合って、再構築しました。この幸せな関係を保ちたいから…実はアルノーと私は、結婚せずにパートナーでいようって話してるんです。制度に縛られず、信頼のもとで一緒にいられる関係が、私たちにとっては心地いいから」
踏み込んだ話をしながらもアルノーと美玲は、運ばれてきた炊き立ての釜飯を見てはしゃいでいる。
その様子をぼんやりと眺めながら、直子は長い迷路から抜け出せる光を見つけたような気がしていた。
食事を終えて、「また会おうね」と約束して、直子はアルノーと美玲と別れた。
それでも直子はまだ家に帰る気になれず、ひとり銀座のバーに寄りカウンターに座り、思考を巡らす。
― 私、費やしてきた時間を無駄にするのが怖くて…離れて行く孝一を、結婚で縛りつけようとしていたのかもしれない。
20代後半から女友達が続々と結婚していく中で、感じる焦り。
乗り遅れた分、良い人と結婚しなきゃ。30過ぎてイチからやり直すくらいなら、今一緒にいる孝一とゴールインしたい。
いつのまにか、そんな惨めな想いに囚われていたのかもしれない
だからこそ、浮気を疑っていても、パンドラの箱を開けるようなことは避けた。穏便に結婚までの最短距離を行くことに、執着していたのだ。
見て見ぬふりをしていた現実は、アルノーと美玲の信頼関係を前にして、見逃せないものとなった。
孝一と直子の関係は──とっくの昔に、壊れていたのだ。
― 私、話し合うことでもう一度孝一と向き合える?…私自身、どうしたい?
すると、熱くなった頭に水を差すかのように、薄暗いカウンターの上でスマホの画面が光った。
『残務が終わらず、帰宅は難しそう。先に寝てね』
味気ない、孝一からのLINE。
彼と話すチャンスのないまま、時間だけが過ぎていく。
― こんな状況なのに、現実から目を逸らして、ハネムーンの聖地への旅行を計画して、プロポーズを期待して…。滑稽だな。
予約したカンクン旅行まであと何日だろう、と手帳を開くと、今日の予定に何か書いてある。
“孝一仙台出張”
― 出張中なのに「帰宅は難しい」という連絡…?辻褄が合わない。
もう孝一は自分に、嘘すらちゃんとついてくれない。その事実は、直子が結果を出すのに十分な理由だった。
― 私自身、どうしたい…?
直子の中で、答えは出た。
孝一からのメッセージ通知を親指で弾くと、直子は旅行会社の予約ページを開いて「キャンセル」のボタンを押す。
― ここまで来ちゃったけど、今からだって新しい道を歩んでもいいよね。
2LDKの家で彼を待つ夜にはさよならを告げる。
我慢していたお酒だって好きなだけ飲んで、街に出て新たな発見や出会いを楽しむのだ。
「人生は長いもの。執着は捨てて、楽しもう」
誰に向かってでもなくそう小さく呟くと、直子は住まい探しのアプリをダウンロードする。
そして、手元のバージンダイキリをグッと飲み干し、アルコールを気にせずに大好きなモヒートを注文した。
▶前回:「あの子とは何でもない」と言い訳されたけど…。彼氏が他の女性と出会っていた28歳女の末路
▶1話目はこちら:バレンタイン当日、彼と音信不通に。翌日に驚愕のLINEが届き…
▶Next:5月14日 火曜更新予定
直子の決心を知らない孝一は、その頃銀座で…。
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