そう思いながらはや1年。
バツイチの孝一はなかなか結婚に踏み切らず、「今の生活が幸せ」と言って話をはぐらかしてくる。
しかし直子は、29歳から34歳の女性にとって大事な6年間を、孝一と過ごしたのだ。
周囲からはすっかり結婚を期待されているし、直子自身、授かり物とはいえ出産も諦めきれない。
― 学歴も経済力も申し分のない孝一と、どうしてもこのタイミングで結婚したい…。
そう考えると、心中は穏やかでいられない。
「以前から、結婚したいという意思は伝えてる。それにカンクンはハネムーンの聖地だし…もしかしたら…。ううん、きっと…」
青く美しい海と純白の砂浜。波音を聴きながらのプロポーズ…。
爽やかなミントのモクテルを口にしながらビーチの写真を見つめ、直子はカンクン旅行への期待で胸を膨らませるのだった。
カフェを出て時刻を確認すると、16時。
「まだ夕飯まで時間あるなぁ」
ふらふらと階上へ出ると、日比谷ステップ広場が色とりどりのアーティフィシャルフラワーに彩られている。
近くで作品を見ようと大階段へと近づくと、ドイツ語で電話をしている青年に目が留まった。
― 何か困ってるみたい。声をかけたほうがいいかな…。
大学でドイツ語を専攻し、クラシックや哲学の好きな直子は、今もドイツ語を話すことができる。
電話を切ってため息をついた青年に、直子はドイツ語で声をかけた。
「あの、何かお困りですか?」
「わっ!ドイツ語が話せるんですね。実は…」
話を聞くと、シンポジウムの会場がわからず、広場で立ち往生しているのだという。
「会場は、『Q HALL』ね。そういえば…」
直子が以前6階の空中庭園を散策した時に、同じフロアに『BASE Q』と呼ばれるエリアがあった。
会場までの道案内を申し出ると、青年がほっとしたように顔を綻ばせる。
「ありがとう。それにしても…ドイツ語が流暢とは珍しいですね」
「大学で勉強して、今もドイツ文化が好きなんです」
「そうなんですね!嬉しいな。逆に僕は日本文化が大好きで。春から、日本で働くことになったんです」
6階までの道すがら、ドイツ語の心地よいテンポに話が弾む。
無事『Q HALL』に到着すると青年は感謝の言葉を述べ、青色の瞳をまっすぐ直子に向けた。
「僕はアルノーといいます。せっかくのご縁なので、よかったらまた会いましょう」
その夜、直子が部屋でくつろいでいると、アルノーからメッセージが届く。
『直子さん、今日はありがとう。出会えてよかったです』
『こちらこそ。思いがけず楽しい時間でした。シンポジウム、間に合った?』
返信にはすぐに反応があった。シンポジウムの感想から始まり、日本での新生活、互いの仕事について…と、チャットのように会話が続く。
ひとしきり盛り上がったあと、パソコンを閉じてバスルームへと向かうと、鏡に映る自分の口角がキュッと上がっている。
― うん。今日はいい日だったな。
長らく忘れていたワクワク感。新しい出会いと、彼…アルノーを知っていくことへの小さなときめき。
この気持ち…もしや浮気に近い?と自問したところで、ふと思う。
― そもそも私、なんで今、部屋にひとりなんだろう…。
本当は今夜は孝一と、旅行の計画がてら夕食を共にする予定だった。
しかし、夕飯時になって孝一から来たのは、『休日出勤、緊急対応で遅くなりそう。先に食べてください』という簡素なLINE。
― 同棲1年目で、さすがに浮気はないと思ってたけど…。
最近の孝一は、遅く帰ってくるとしばらくスマホを触っている。今までになかった国内出張も増えた。
コロナ禍でワークスタイルが変化した、という孝一の言葉を信じていたが、あらためて振り返ってみると気になることばかりだ。
― そもそも証券会社の仕事って、スマホでできるの?
胸の中に小さな点のように生じた疑念が、じわじわと広がっていく。どうにか気を紛らわそうとスマホを手に取ると、通知が鳴った。アルノーだ。
『来週、食事に行きませんか?』
異性からの食事の誘いなんて、何年ぶりだろう。
嬉しさを感じつつも、直子は孝一と同棲中の身だ。一瞬返事をためらうものの、すぐに今自分が置かれている状況を思い出す。
― 毎晩、孝一からのLINEにがっかりするだけの夜を過ごしてるんだもの。たまには男の人と食事くらい…行ったっていいよね?
『お誘いありがとう。ぜひ行きましょう!』
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