◆
― まさか、こんなことになるとは…。
そんな想いを抱えながら、慎吾は紗耶の横顔をじっと見つめる。
実は、ゴルフバッグを返すと約束した月曜。オフィスのカフェテリアであれよあれよと盛り上がったふたりは、仕事帰りに室内ゴルフ場へ行くことになったのだ。
それから紗耶とはゴルフ練習をする仲となり、練習帰りに軽くディナーをするのがすっかり定番となっている。
今日は紗耶が以前から気になっていたという、芝公園近くにあるレストランに来ていた。東京タワーのたもとにある人気店だ。
店内は薄暗い間接照明がムーディーな雰囲気を醸し出しており、周りはカップルが多い。
大阪にいた頃は、同僚と行く店はほとんど居酒屋。休日に家族で出かけるときも、ファミリー向けの店にばかり行っていた。
こんな洗練されたレストランで若い女性と2人食事を楽しむなんて、とっくに過ぎ去ったと思っていた青春がこの手に戻ってきたようで、否が応でもドキドキする。
「東京タワー、綺麗ですね…」
そう言って、紗耶は瞳を輝かせる。その横顔から、慎吾は目を離せない。
「大阪にいたから、東京の夜景は新鮮だよ。ゴルフも楽しいし、東京生活を最高の日々にしてくれてありがとう」
「こちらこそ。前園さん上手ですし、ラウンドも行きたいですね」
紗耶の人懐こい笑顔を見て、朝まで一緒にいたい気持ちに駆られるが、まだ出会って数週間。
むやみに紗耶を傷つけたりしたら、オフィスにはいられなくなるだろう。
― 調子に乗りすぎないようにしないとな。酔いざましに、少し歩くか…。
ディナーを終えて紗耶をタクシープールへ送ると、慎吾は自宅方面に歩き出した。
けれど、鼻歌まじりに地下の歩行者通路を歩いていると、驚くべき光景に出くわす。なんと、目の前を麻人らしき人物がゆっくりと歩いていたのだ。
「おい、麻人!今帰りか」
浮かれ気分の慎吾が意気揚々と声をかけると、麻人が振り向き、嬉しさと驚きの入り混じった顔を浮かべた。
「前園さん、おつかれさまです。楽しそうですね。いいことでもあったんですか?」
「はは。ちょっとな。金曜だし、軽く付き合わないか」
「いいですね!」
慎吾は、心許した麻人と予期せぬ二次会ができることに心を弾ませる。快く返事をした麻人の微笑みに、かすかな違和感が混じっていることには、気づくよしもなかった。
飲み直す場所として選んだバーに着くと、意を決したように、麻人が口を開いた。
「あの…前園さん。聞いてもいいですか?それって…」
麻人が気にしていたのは、慎吾が手にしているゴルフバッグだ。大阪時代に慎吾が「ゴルフはしない」と言っていたことを、長年慎吾を慕ってくれている麻人は、よく知っている。
「ああ、これな。俺ゴルフ始めたんだよ」
麻人は腑に落ちたような落ちないような表情で、首をかしげた。
「もしかして、紗耶と一緒にいました?」
「えっ…」
慎吾の表情が固まる。
― ここで、正直に話していいのか?いや、隠しても仕方ない。
実のところ、この楽しい気持ちを誰かに話したいという欲求が慎吾にはあった。
「いやぁ…先月から、紗耶ちゃんとゴルフ練習に行ってて。5月の連休前に軽井沢にラウンド行こうか、なんて話してるんだ」
嬉しそうに話す慎吾。その様子は、まるで新婚の妻を自慢する愛妻家のように見えたかもしれない。
麻人は首をわずかに傾けたまま、確認する。
「それは、泊まりですか?ふたりで?」
「そうなるかな。詳細はこれから決めるけど…」
ペラペラと打ち明ける慎吾の様子を見て、麻人の顔にはみるみる困惑の色が浮かんでいった。
困惑というより、憐れみや軽蔑の方が近いかもしれない。
尊敬する上司である慎吾の、こんな姿を見ていられない──。そんな気持ちが限界を迎えたのだろう。止まらない惚気のような慎吾の会話に、麻人は我慢がならない様子で口を挟んだ。
「前園さん。奥さんとお子さん、大阪に置いてきてるじゃないですか」
慎吾は、必死で見て見ぬ振りをしていた自分の恥部をほじくり返されたような気がして、カッとなる。
― そんなこと分かってる。でも、俺だって辛くて、孤独で…!
醜い自己保身とわかっていながらもそう言い返そうとして、慎吾は後ろめたさのあまり伏せていた視線を上げた。
麻人が自分を非難するつもりなら、これまでの孤独を洗いざらいぶち撒けて、理解させてみせる…。
けれどそんな卑屈な考えは、麻人の目を見た瞬間に打ちのめされるのだった。
失望を帯びた麻人の瞳は、わずかな希望を探るかのようにまっすぐと慎吾へ向いている。
「前園さん」
「…」
麻人の瞳に射すくめられた慎吾は、それ以上、どんな言葉も発することができなかった。
ただひとつ、強く心に湧き出てきたのは、こんな想いだ。
― 俺、こいつにだけは、軽蔑されたくない。こいつの前では、本当にかっこいい男でいたい。
しばらく黙り込んでいたふたりだったが、しばしの沈黙のあと、ようやく慎吾が口を開く。
「そう…だよな。この数ヶ月いろいろあって…客観的な判断力に欠けていたよ。麻人、指摘ありがとう。俺、どうかしてたわ」
麻人の瞳に、光が戻る。
「はは、ゴルフ…楽しいんですね!紗耶とも、後輩兼ゴルフ仲間として、仲良くしてやってください」
◆
麻人との無言の攻防戦から、1ヶ月後。
「前園さんー?行きますよ!」
今日も慎吾と麻人は共に商談へ向かう。
麻人に屈託のない笑顔を向けられた慎吾は、はつらつとした様子で部屋を出る。
今はもう、紗耶とは連絡も取っていない。
あのあとすぐに紗耶とのラウンドは断り、代わりに社内コンペを企画したのだ。
思い切って自ら企画した社内イベントだが、慎吾と距離を縮めるきっかけをうかがっていた社員が何人もいたのは、嬉しい誤算だった。
「前園さんって、意外と親しみやすんですね。もっとお高くとまってるのかと思ってました」「今度、飲みに行きませんか?」などと次々に声をかけられ、ゴルフコンペは大成功に終わったのだった。
ひとつのきっかけで、歯車が動き出すこともある。社内コンペをきっかけに、いまや慎吾はすっかり職場に馴染んでいる。
紗耶との危うい関係を絶ったあとも、いまやゴルフはすっかり慎吾の趣味になっていた。
部下や上司、クライアントともゴルフを共に楽しむことで、徐々にではあるが東京での仕事が軌道に乗ってきていると感じる。
― もしもあの時、道を踏み外していたら…こんなことにはなってなかったかもしれないな。
そう思いながら慎吾は、駅のホームでボールペンを片手にスイングのフォームを確認する。
「おっ。前園さん、ナイスショットですね!」
隣で電車を待ちながらイタズラに笑う麻人に、慎吾は「だろ?」と言いながら、もう一度素振りをする。
自分にしか見えないボールが、今までのダサい自分と紗耶への淡い想いと一緒に、青空の向こう遠くに飛んでいった。
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この記事へのコメント
週末とか普通に帰れるけどねぇ。ニューヨークとかじゃなくて大阪でしょう🤣
ゴルフバッグなんて大きなもの忘れるなんて普通有り得ないし、そんなあざとい女に引っかかりでもしたら身の破滅だっかかもしれない。
だいたい重いのに届けてやる必要なんてないよ、そんな大きな荷物、飲食店も取りに来るまで預かってくれると思うし。