光弘は今朝、車で翼を保育園に送ってくれた。だから、果奈の電動自転車は自宅に置いたままだ。
翼と2人、家までの遠い道のりを歩いて帰ることを考えると、果奈はうんざりした。
自宅に帰れば、朝セットした電気圧力鍋が肉と野菜を煮込んでくれているはずだ。
後は味を調えればシチューが完成するのだが、今日はその気力も残されていない。
「今日はタクシーで帰ろう。途中でお弁当買って帰ろうか」
保育園を出た果奈は、再びタクシーを拾うと、近くのオーガニックスーパーに向かった。
◆
21時過ぎ、翼を寝かしつけたあとになって、ようやく光弘が帰宅した。
「あのさあ、お迎え間に合わないんなら、せめてお昼前までに言ってよ」
リビングで、終わらなかった仕事を片付けていた果奈は、思わず声を荒らげる。
光弘は、ただいまも言わずに言葉を返した。
「延長保育料払えば19時まで預かってもらえるんだろ?」
「今日は延長保育の枠がなかったのよ。もう少し想像力を働かせてよ」
「ああ、そう。大体、なんで家と保育園がこんなに遠いんだよ。朝渋滞に巻き込まれたじゃないか」
保育園申し込みの時、自営業の夫は『シフト調整可』とみなされ、近所の認可保育園に落ちた。祐天寺にある認可外のモンテッソーリ園に入れたのは、たまたま入園辞退者が出たからだ。
何度説明すれば覚えるのだろうかと、果奈はあきれる。
「何回も言ったよね?もう一度説明したほうが良い?」
そうでしたねー、と返事をしてバスルームに向かう夫を見て、果奈は怒りのあまりぐっとこぶしを握りしめた。
しばらくすると、光弘が気まずそうに、小皿を片手にリビングへ戻ってきた。
「電気圧力鍋で作ってたシチュー、味調えたからちょっと食べてみて」
「…すごくおいしい」
果奈が答えると、光弘は安心したようにうなずいて、再びキッチンへと消えた。
果奈がキッチンへ向かうと、光弘はシチューを小分けにして冷凍する準備をしながら言った。
「さっきはごめん。今日は、お迎え行ってくれてありがとう」
「わかってくれたら良いのよ。…ワイン飲む?」
果奈はワインセラーから白ワインを取り出すと、光弘を誘ってリビングのソファに座った。
「ねえ、翼のことで相談なんだけど…うちも小学校受験してみない?」
果奈は昼間の思いつきを光弘に話した。
「小学校受験?翼が小学校になる前に、ここを売って、文京区の3S1Kの学区にもっと広いマンション買いたいって言ってたじゃない」
光弘は、翼が生まれる前に夫婦共同名義で買った、65平米のマンションのリビングを見渡しながら言った。
誠之小学校(S)、千駄木小学校(S)、昭和小学校(S)、窪町小学校(K)。
文京区にある名門公立小学校4校のイニシャルをとって、通称「3S1K」だ。
「そうなんだけど、私が卒業した学校に、翼も通えたら素敵だなってちょっと思ったのよ」
果奈はそう言いながら、タブレットで母校のWebサイトを開いた。
「さっき、子どもを初等部に通わせている友達に聞いたんだけど、今はお母さんが働いていても、お受験するご家庭がたくさんあるんだって…ってなにこれ!?」
母校のウェブサイトの『学校生活』の箇所をタップすると、果奈は思わず叫んだ。
『夏は受験の天王山!算数合宿を制して合格を勝ち取ろう!』
果奈の学校は、ほとんどの生徒が内部進学で大学まで進むはずだ。
しかし、これはどう見ても中学受験を視野に入れた夏休み特訓ではないか。
「あれ、なんか私が通ってた頃と雰囲気が違う…」
果奈がしどろもどろになると、光弘が笑いながら言った。
「果奈から聞いてたのと違って、すごい勉強激しめじゃん。いいかもな。翼も社会の厳しさを早めに知ったほうが良いからな」
果奈が小学校を卒業してから二十数年の時が経つ。その間に母校は中学での外部受験を見据えた進学校へと変貌を遂げていた。
「ええ!?ああ、どうしよう」
思わぬ形で夫の賛成は得られたが、のびのびした学生生活を夢見て翼のお受験を考え始めた果奈は、ただただ困惑していた。
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この記事へのコメント
コメント欄の治安が悪くなるから怖いわ。
コメントで色々突っ込まれるんだろうな。
やれ、そこの学校は偏差値低いだの、ライターは現状把握してないだの…受験ネタって謎にムキになるコメントが多いから苦手。