「もらっちゃった!」
楓は小ぶりのトートを両手で持ち上げて見せた。
「いいなぁ。インフレーテッドアナグラム トート ミニのベージュ!」
結子がその長い名前を間違うことなく言えてしまうのは、ここ2、3ヶ月買うか、買うまいか、悶々と悩んでいたバッグだからだ。
「先越された感、ハンパないんだけど。自分で買ったの?」
「いいや、まさか。私、今月誕生日だから、彼に買ってもらっちゃった。コレも!」
そう言うと、バッグの中からアナグラムシリーズの二つ折り財布を取り出した。
「おおっ!財布まで!」
結子は、大げさに驚いてみせる。
「この間表参道のロエベの前を通りかかった時に、なんとなくショーウインドーを見入ってしまって。そしたら彼が“欲しいの?”って」
楓の彼は45歳。会社経営者でバツイチだ。
ブランドバッグをサラッとプレゼントしてくれる男性と、楓が付き合い始めたのは、サンクスカード導入と同じタイミングの約半年前。
男女ともにある一定以上の所得者に限ったマッチングアプリで知り合った。
― なんか仕事も恋愛も、私って置いてけぼりくらってる感じ…。
「結子も仕事ばっかしてないで、いい加減彼氏作りなよ」
結子の内心を察するように、楓がハッパをかける。
「年上は?甘やかしてくれるし、余裕もあるし。私の彼はバツイチだから、次は失敗したくないって思ってるみたいで、とにかく優しいの」
「まぁ…そのうち?」と言いながら、結子は椅子をくるりとデスクに向き直り、伏せてあったiPhoneを手に取ると、画面には、また社内SNSの通知が表れた。
― また、サンクスカードか…。今度は誰?
結子は、スワイプして通知の中身を確認する。送り主の名前には『Hyuga』とある。
あるクライアントのプロジェクトで同じチームの日向春輝だ。
2年ほど前に中途採用で入社した彼は、結子の4つ下の28歳。
彼は、入社した当初から女性社員から密かに注目されている存在だった。
細身の長身、取り立てて美形というわけでもないが、顔や体のバランスがよく遠目でも目立つ。
モテそうだが、高校の時から付き合っている恋人がいるという噂も、彼のイメージをより清らかなものにしている。
隣の楓を横目で気にしながら、恐る恐るメッセージを確認した。
「末永さん、昨日はありがとうございました。近日中に、また打ち合わせできますか?」
― えっ?ど、どうしよう。やっぱり、私…。
「また打ち合わせ」という一文を見た時、昨夜のことが走馬灯のように頭の中を巡ったのだ。
◆
昨日のこと。
「日向くん、迷惑かけちゃってごめんなさい!!」
日向が帰社するや、自販機で飲み物を買おうとしている彼を捕まえ、頭を下げた。
今回、結子が日向と共に携わったのは、あるアパレルブランドのキャンペーンビジュアルの仕事だ。その制作はもちろんのこと、WEBやLINE、SNSなどへの出広プランも含め、企画、進行するのが結子の役割だった。
しかし、そもそもクライアントが希望していたタレントをキャスティングできなかったところから、不協和音が鳴り始めた。
さらに、後輩社員のミスや、制作段階での不運が重なり、クライアントの担当者が立腹。
そこに途中から割って入って問題点を整理し、丸く収めたのが日向だった。
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