
~メディアとしてではなく一職人として。伝統工芸の魅力を新しい立場から発信したい~
子どもの頃からぼんやりと抱いた「アナウンサー」という夢
金丸:梶浦さんはどちらのお生まれですか?
梶浦:岐阜県の中津川市です。
金丸:「中津川フォークジャンボリー」で知られるフォークソングの聖地ですよね。
梶浦:そうです。山奥の田舎、というイメージが強いと思いますけど。
金丸:振り返ってみて、職人の世界に入るという兆しは、子どもの頃からあったのですか?
梶浦:特に思い当たりませんが、通っていた保育園がちょっと特殊だったので、その影響はあるかもしれません。公立の保育園でしたが、教室に自由に使っていい木材や竹、わらが置いてあって、「必要なものは全部自分で作りなさい」という方針でした。しかも、肥後守(ひごのかみ)というふたつに折れる刃物をひとり1本渡されるんです。
金丸:え、保育園児に?普通だったら「危ないから」と絶対に持たせないですよね。
梶浦:中津川のほかの地域の人も「そうだった」と言っていたので、園というか、市の方針だったのかなと思うんですけど。
金丸:それは今も続いているんですか?
梶浦:いや、やめちゃったみたいです。
金丸:もったいない。
梶浦:今では根付づくりのために朝から晩まで刃物を握っていますが、保育園での教育が刃物を身近にさせてくれたと感じていますね。
金丸:怪我をしないよう、使い方も教わったんですか?
梶浦:もちろんです。危なかったらすぐに注意されるし、「こういうものを作ってみたら?」と提案してくれたり、作るのをサポートしてくれたり。
金丸:梶浦さんはどんなものを作ったんですか?
梶浦:ちょっとした棚を作ったり、わらを編んで鍋敷きを作ったりしていました。鍋敷きを家に持って帰ったら、両親がすごく喜んでくれたのを今でも覚えています。それを私が大人になるまで、大事に使ってくれていました。
金丸:喜んでくれたことが、子どもたちの成功体験になる。素晴らしいですね。
梶浦:うちの園長先生は芸術に明るい方で、ご自身も絵を描かれていました。だからほかの園と比べても、特にそういうことを推奨していたのかもしれません。私の親づてに「根付職人になりました」という話はお伝えしました。
金丸:きっと喜ばれたでしょうね。小学校の頃はどんなお子さんでしたか?
梶浦:ごく普通の子どもだったと思います。まあ、どちらかといえば優等生だったかなと。
金丸:たしかに梶浦さんは、先生の言うことをちゃんと聞くタイプのように見えます。
梶浦:先生の言うことはしっかり聞くタイプだったので、何か発表するような機会があると、私が学年代表として言わされることが多かったですね。
金丸:私とはえらい違いだ(笑)。
梶浦:実は、小学校の卒業文集に「アナウンサーになりたい」って書いたんですよ。
金丸:目立ちたがり屋だったんですか?
梶浦:いえ。自分では人前に出るのが得意だとは思っていませんでした。ただ、人前で話したときに「明日香ちゃん、アナウンサーみたいだね」と言われて。それが嬉しかったんだと思います。
金丸:褒められたら木に登るタイプなんですね(笑)。
梶浦:そうですね(笑)。田舎なので、アナウンサーなんてテレビの向こう側の世界でしかなくて。現実味はまったくありませんでしたが、卒業文集に何か書かなきゃいけないとなったときに、ふとアナウンサーを思いついたんでしょうね(笑)。