2021.01.17
夫の寵愛 Vol.1その日、自宅での夕食が始まると、毅は「相談がある」と切り出してきた。
「里紗の料理教室なんだけど、規模を拡大してみない?」
「規模を拡大?」
「具体的には、レストラン部門を始めたい」
料理教室は法人化していて、れっきとした会社組織だ。代表取締役は里紗だが、資金を提供した毅が実質オーナーとなっている。空間プロデューサーとしての彼の個人事務所が、親会社というわけだ。
毅は事業プランを語り始めた。
「このご時世だから、店舗を構えるレストランじゃなくてさ。デリバリー専門のレストランなんだけど、どうかな?あのキッチンスタジオを使って調理するんだ」
たしかに完全オンライン教室に切り替えて以来、料理教室としてスタジオが稼働している時間は減っている。
対面式での料理教室は同時に受講できる数が多くても10人程度で、いつもは4、5人だった。しかしオンラインなら同時に20人近くが受講できる。
1回における生徒数が増えた分、講義自体の回数は減っているのだ。
「もちろん、すべて里紗が作るわけじゃないよ。調理スタッフは外部から募集する。君はレシピを考えるんだ」
「あー、いいかもね!」
さすが毅だと思い、里紗は乗り気になった。
「スタジオを始めて、私、本当に料理が好きなんだなって思ったの。教えるだけじゃなくて、お客さんに自分のレシピを振る舞ってみたいかも」
これぞ以心伝心と言うのだろうか。2人は夫婦ならではの阿吽の呼吸で、その夜、レストラン部門の展望を語り尽くした。
アルコールも進み、里紗だけでなく、夫もかなり上機嫌のようだった。
「じゃ、さっそく明日から準備を始めるよ」
毅は知る人ぞ知る気鋭の空間プロデューサーだが、同時に優秀な経営者でもあった。新しいビジネスアイディアに対して、フットワークが軽い。
「里紗は、調理スタッフの目星をつけといて」
「うん。教室の生徒さんたちで、やってくれる人がいると思うから、当たってみる」
「よしっ。乾杯だ。里紗のレストランの前途を祝して」
「乾杯」
2人でグラスを掲げた。
だが次の瞬間、夫が発した言葉に、耳を疑った。
「里紗がYouTubeやってる頃から、いつかはレストランを始めるべきだと思ってたんだよなー」
「…え?」
「ん?」
「YouTubeって何?」
ワインでほんのり紅潮していた毅の顔がみるみる青ざめていく。そして分かりやすく狼狽する。
「間違えた。YouTubeじゃなくてInstagramだった」
慌ててごまかす夫を前に、自分はいたって冷静だった。
たしかに、かつての里紗は――毅と知り合う前の里紗は――YouTubeをやっていたのだ。だからこそ彼の発言がただの言い間違いとは思えなかった。
会社勤めをしている20代の頃、“普通”な人生に飽き飽きして、実はたった2本だけ料理動画をアップしたことがある。
しかも男性目線を意識した“格好”で…。
若気の至りだ。すぐに羞恥と後悔が押し寄せ、動画は削除した。
動画を見た男たちから「会いませんか」というメッセージが次々に届いたことも大きい。恐怖を抱きながらも「逆に、こんな出会いもアリかも…」などと心が動いた自分がいた。そんな自分が許せなかった。
仲の良い友人にも言っていない、まさに黒歴史。
―なのにあなたはどうして、それを知ってるの?
口に出して質問したかった。しかし、できない。
奇妙な沈黙が生まれて、その後、何事もなかったように再びレストラン事業の話に戻る。
夕食を終えると、夫はシャワーを浴びにバスルームへと向かった。
その間、Instagramを開くと、例の男から3通目のDMが届いていた。
『お願いです。ボクともう一度、会ってください。ご主人のことで、どうしても、お伝えしたいことがあるんです』
そのメッセージを見た瞬間に、スマホを持つ手が震え始める。
どんなに落ち着こうとしても、震えは止まらなかった。
▶他にも:「私の荷物はどこに隠したの…?」男の部屋で屈辱を受けた、セカンド女の悲痛な叫び
▶Next:1月24日 日曜更新予定
愛にあふれた結婚生活が、突如として、空転していく…。
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