ここは夫の春樹が「会社の同僚が子供を通わせていた」という幼児教室で、今日はサマースクールの初日なのだ。
隼人は、年中だから来年2020年の11月が受験本番。そのため、このサマースクールは受験本番1年前の今年11月から始まる新年長クラスに向けての準備講座であり重要な位置づけとなっている。
「ママ、こないだのハワイ楽しかったね」
緊張気味の京子をよそに、隼人が明るく言った。
今年の夏のはじめ、隼人と京子はハワイで夏を楽しんだ。幼稚園のママ友たちと子連れハワイ旅行。
「来年になるとお受験で忙しくて行けない人もいるから」と仲良くしているママに誘われ、ママ友4人プラス子供達と10日ほどコンドミニアムを借りたのだ。
その旅行から戻るやいなや、夫が放った一言が、京子の憂鬱の原因で、こうして暑っ苦しい格好で歩いているきっかけでもあった。
「隼人を私立の小学校に入れたい。できれば幼稚舎、ダメなら青山」
ハワイの土産話を聞くのもそこそこに、春樹は言った。
「幼稚園が一緒のみんなは、小学校はどうするんだ?」
いつもは子供の教育に無関心な夫が、突然小学校の話をふってきたのだ。
「私立と公立、半々くらいかしら。ほらこのあたりは青南小学校や神宮前小学校が近くて学区もいいじゃない?」
「この辺に住んでいる同僚が言ってたけどさ。学区がいいと言っても中学受験が加熱してるから、最近はとりあえずみんな小学校受験させるらしいよ。そいつも娘は青山だって。うちの隼人も受験させよう」
―また始まった。
春樹という人は、仕事以外のことはもっぱら周囲に影響されがちなのだ。
そもそも今の京子の生活だって「俺の周りの人は保育園じゃなくて幼稚園に入れている」と春樹が言い出したことから始まっている。
しかも、神宮前2丁目のマンションをプレゼントしてきた姑から「家賃もなくなるし、子育てに専念するためにお仕事辞めたら?」とチクリと刺され、隼人が幼稚園に入園するタイミングで、しぶしぶ仕事を辞めたのだ。
大手広告代理店「ウィル・ヴェンダーズ」へはコネ入社だが、40歳にして売れっ子コピーライターの名をほしいままにしている春樹。早慶出身でもないのに、同社でもトップクラスの年収2,000万を稼ぎ出している。
そんな彼の才能と仕事への貪欲さを京子は尊敬している。
それに、春樹は女性にモテる。独身の頃、同じ職場だった京子は、そのことをよくわかっている。
京子自身は早稲田の国際教養学部を卒業し、コネなしでウィルに入社。その上、春樹を勝ち取り、結婚し子供まで産み、神宮前に住んでいる。今の生活は自分の努力で得た人生の戦利品だ。
そのせいか常日頃から、彼が「こうしたい」という意志をついつい尊重してしまう。
◆
教室に入るや、ホワイトボードに向かって並べられた机に子供たちは案内された。
一方、保護者は別室で「お受験説明会」に参加する。平日だからか、父親の参加は2、3名ほどで、ほとんど母親で席は埋まっていた。
皆一様にネイビーを基調とした地味な服装ではあるけれど、バッグのエルメス率の高さといったら…。京子は場違いなところに来てしまったと既に後悔し始めていた。
ほどなくして清楚だが華のある年配の女性が入ってきた。
「お暑い中お越しいただきまして、有難うございます。年中のサマースクールと11月から始まる新年長クラスを担当する東山です」
京子も周りに倣ってお辞儀をする。
受験までのスケジュール、家庭学習の行い方……。東山先生は順序立てて説明を始めた。京子は漠然とメモを取りながら思った。
―子供に本当にこんなことさせるのかしら?
「本当にこんなことしないと受からないのかしら?と思っているご両親さまがこの中にはいらっしゃるでしょう」
突然、京子の心の内を見透かしたように東山先生の声のトーンが上がった。
京子がドキッとして顔を上げると、先生と目が合う。じわっと手汗が滲むのを感じる。
「そこの窓際のお母さま」
東山先生はじっと京子を見ていた。
「何をすればお子さまはご希望の小学校に入れるのでしょうか?」
「お教室での復習をきちんと行うことですか?」
声を振り絞るようにして答える京子だったが、ありきたりの言葉しか出てこない。
「そうね。それも大事ですが。普通に受験したら、普通に落ちます。それが現実です」
京子は苦笑いするしかなかった。
「受験は、“家族のオーディション”みたいなものです。学校に選ばれなくてはなりません。そこで、合格を勝ち取るために、私の考えではやることは3つ。1つは良縁をつかむこと。2つめはお子さまをキラリと光る子供に仕立てること。3つめは……お母さま、あなたが女優になること!」
この記事へのコメント
たかだかとはいえ、そこまで稼げてない自分が言うのもなんですが。