「紗栄子さん、来てくださって良かったです!私1人じゃどうしても自信がなくて。今ちょうど撮影が始まるところです」
オドオドと周囲の目ばかり気にしている樹里を見て、紗栄子はただ優しく微笑む。
そんな紗栄子の眼差しに気持ちを落ち着けた樹里が、スタジオのセットの準備を手伝おうと、必要な機材が入った大きなダンボールを持ち上げたその瞬間。
同じく立会いに参加していた広告代理店の男が、ふっと樹里の横に現れた。
「花山さん、それ重くないっすか?俺、持ちますよ」
だが、急に声をかけられた樹里は、その申し出を全力で否定した。
「いえ、そんな…大丈夫です、いいです。自分で持てますから」
ー確かにこの箱重いけど…、持ってもらうのも悪いしなあ…。
そんな、申し訳なさから咄嗟に男性の助けを断った樹里だったが、その様子を見ていた紗栄子は小さくため息をつく。
そして、荷物を運び終えてスタジオの隅に移動した樹里に向かって、美しくまつ毛エクステが施された目を細めながら、ゆっくりと手招きをした。
「何…?私へんなことしたかしら…」
ドキドキしながら紗栄子のもとへ戻った樹里に紗栄子が言ったのは、意外な一言だった。
「ねえ?花山さん。いいこと教えてあげる…」
「へ…?」
その妖しげな微笑みにドキリとした樹里だったが、紗栄子はそんな樹里の様子に意を介すことなく、耳元に唇を寄せて、そっとこう告げた。
「あのね、さっきみたいな時は、素直にお願いすると、逆に喜ばれるのよ。…男はね、みんな頼られたいの」
【今回の登場人物】
名前:水口 紗栄子
年齢:38歳
役職:課長
家族構成:二児の母、シングルマザー
紗栄子は思った。
ー花山さんは、もっと男心を利用したほうがいいわね。素質はありそうなのに、もったいない。
代理店の男が、樹里にちょっとした好意を抱いていることは端からみてよくわかる。
仕事の人間関係では、そういった感情も利用すべき。それを樹里に伝えたかった。
しかしどうだろう。
「男はね、みんな頼られたいの」
そんな当たり前のことを告げただけにもかかわらず、樹里はポカンと口を開け、不思議そうにこちらを見ているではないか。
ー『男は気持ちよくさせて転がすべし』、花山さんにもいつかわかる日が来るわ…。
紗栄子は目を細めながら樹里を見つめ、自分がその信条にたどり着いた頃のことを思い出した。
◆
「紗栄子さん、今日の商談はありがとうね、助かったよ。この後もし時間あったら、ご馳走させてよ」
あれは今から5年前、マーケティング部の紗栄子が、営業部の須田と二人で商談に外出したときのこと。
大口の顧客になりそうだという重要な商談に紗栄子も同行した帰り道、須田が紗栄子を見ながらそう微笑んでいた。
敏感な紗栄子は、須田の言葉の根底にどんな感情が流れているのかを、確信を持って感じ取る。
ーこのお誘いは、ただの“仕事のお礼”だけではないな…。
これまで数多の女を落としてきたことを感じさせる笑顔。左手の薬指に光る指輪。須田の目の中で光るのは、大きな野心だ。
シングルマザーとして暮らす紗栄子は、今はどっぷりと恋愛に浸るつもりはない。
しかし、普段から熱心に部下を教育している須田は、若手社員たちからの密かに人望を集めている男だ。それに、社内の役員クラスのポジションの人たちや業界のキーパーソンともコネクションがあると聞いたことがある。
それらに加えて、色濃い野心の香りを嗅ぎ取った紗栄子は、ひとり心の中で計算をし終えた。
ーでも、いいかも。利用してあげようかしら。
首を傾げて驚いた顔を作ってみせながら5秒ほど考えた後、紗栄子は身を乗り出しながら答えた。
「えー、いいんですか?嬉しいです」
初めて二人で食事に行った日から関係は始まり、あれから5年。
今ではすっかり仕事でもプライベートでも須田の“お気に入り”の座を獲得した紗栄子は、密かに思う。
ーやっぱり、思った通り…。
この記事へのコメント
大切なことだけど、難しいよね
利用されているのか?
なんか利用されてると思うのは私だけか?
不憫なのは上司の奥さん