SPECIAL TALK Vol.68

~故郷に職人のエデンを作りたい。世界一の庭師として次に挑むものがある~

独立、被災、再起。そして全国チェーン経営へ

金丸:その後、どうされたのですか?

石原:生け花を習いつつ、路上販売の花屋でアルバイトをして修業しました。そこで商売の基本を身に付けて24歳で独立し、実家の牛小屋を改装して仲間と3人で、念願の花屋を始めたんです。

金丸:かなりスピーディーな展開ですが、うまくいきましたか?

石原:それがうまくいき始めた矢先に、長崎大水害が起きまして。300人近くが亡くなり、そのなかには一緒に花屋を始めた仲間もいました。

金丸:そんなつらいことが……。

石原:水害で長崎の街は破壊されてしまい、花屋を続けられる状態ではなくなって。結局もうひとりの仲間は辞めてしまいました。

金丸:石原さんひとりになってしまったんですね。

石原:そうですね。でも僕は絶対続けたいと思っていた。だから長崎を離れ、日本中の花屋を見て回りながら修業しなおし、29歳で長崎に戻って、花屋の路上販売を再スタートさせました。長崎の街には立地のいい場所に花屋がないから、路上販売でもいい立地さえ確保できれば、勝機があると考えたんです。

金丸:ちょうどその頃は、バブルに沸いていた時期ですよね。

石原:そうです。1980年代後半ですね。普通に店舗を借りるのは厳しかったけど、街の至るところに隙間はありました。最初に目を付けたのも、自動販売機が置いてあるスペースです。

金丸:自動販売機のスペースって、隙間にしても随分狭くないですか?

石原:いや、花の販売は1メートル四方あればできますから。

金丸:路上販売の経験があったから、そういう発想ができたのでしょうね。

石原:実際に花屋を始めると、どんどんお客様が増え、店舗数もどんどん増やしていきました。らせん階段の下やビルの入り口など、いろいろな隙間に出店しましたね。そこからはもう売上が直角に上がって、最終的に北は仙台、南は沖縄まで全国で80店舗にまで広げました。さらに商社と組んで、ベトナムと中国でバラとカーネーションを生産するまでになりました。

金丸:すごいですね。私のなかで石原さんはアーティストという位置づけだったので、経営者としての過去は全然知りませんでした。

石原:大昔の話ですから(笑)。

金丸:そのお店の経営には今も携わっているのですか?

石原:それが、今度はバブル崩壊の直撃を受けたんです。店舗は全部社員に渡し、一気に8億円の負債を抱えることになりました。

金丸:それは痛い。

石原:当時組んでいた商社からは、「うちで負債を全額かぶってもいい」というありがたい言葉もいただいたんですが、僕にも意地があるので、「いや、僕が全部背負います」と。

金丸:かっこいいけど、簡単な話じゃないですよね。

石原:店舗や不動産をいくつか売却して負債を4億円にまで減らし、それを10年かけて返済するという計画を立てましたが大変でした。

莫大な負債を抱えながら、庭づくりという新たな領域に

金丸:10年で4億円となると、相当稼ぐ必要がありますが。

石原:毎月1,000万円の粗利を出さないと破綻です。まさに崖っぷちからの再スタートでした。

金丸:そんな状況で、よく投げ出しませんでしたね。自己破産という手だってあるじゃないですか。

石原:妻も子どももいましたから、とても苦しかったのは確かですが、でも「借金をちゃんと返したら、絶対にいいことがある」と信じて、必死で働きましたね。ただ、きつかった。親の土地を一部売ったのは悔しかったし、子どもの同級生の親が銀行の担当者で、抵当に入れたわが家を測りにきたこともありました。

金丸:この難局をどうやって乗り越えようと考えたのですか?

石原:営業マンもいないたったひとりの状態なので、花のビジネスでどうやって稼いでいくかを日々考えました。そして生き残るためには、目の前のお客様をシビれさせるしかないと思ったんです。

金丸:お客様をシビれさせると。

石原:ほかの花屋と同じ次元の感動では勝てません。圧倒的に喜んでいただかないといけない。とはいえ、ひとりでできることはたかが知れています。何か方法はないかと探していたとき、お得意様から「石原くん、庭はできるの?」と聞かれて、「はい、得意です!」と即答しました。

金丸:えっ? 得意だったんですか?

石原:いや、それまでやったことはありません。

金丸:すごい度胸だ(笑)。勢いで受注して、結果はどうでした?

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