それは、昨晩のデートでのことだった。
「麻衣、お疲れさま」
「お疲れさま。遅くなってごめんね」
京太郎は数分の遅刻は気にも留めない様子で、さりげなく麻衣の腰に手を添えて先を促した。
触れられたのはほんの一瞬だったのに、麻衣の頬は熱をもち、心臓がドキドキと音を立てる。
182cmという高身長には少し不釣合いな優しい顔立ちに、柔らかい口調と甘い表情。これまで何人の女性が心踊らされてきたのだろう。
「だいぶ日が長くなってきたね」
「うん、もうすぐ夏だね」
「オレ、夏が好きなんだ。今年はいろんなところ一緒に行きたい」
未来を連想させてくれる言葉に胸の高鳴りを覚え、麻衣は曖昧な返事しかできないでいた。
京太郎の行動や言動が、麻衣に“京太郎の彼女”という立場であることを認識させてくれる。
待ち合わせから入店、メニューを決めるのも、店員さんに注文するのも、京太郎は全てにおいて抜かりなくカンペキだった。
しかし食事が進み、付き合いたての時期特有の緊張感も緩まった頃、京太郎が思わぬミスをする。
「“リコ”は次、何にする?」
麻衣のグラスが空いていることに気付いた京太郎が、あまりにも自然に、麻衣の名前を呼び間違えたのだ。
2人はほぼ同時に、お互いを見た。ゆっくりと視線が絡まり合う。
「麻衣、ごめん。今のは忘れて。次、麻衣は何にする?」
京太郎の優しく、とろけそうになる笑顔からは「これ以上の質問は無用」のオーラが漂っていて、麻衣は浮かんでくる質問を全て飲み込まざるを得なかった。
しかし麻衣は“リコ”という女性が、京太郎にとって「自分に隠しておきたいような存在」であることを悟ってしまったのだ。
◆
麻衣は昨晩の出来事を、すべてレナに打ち明けた。
「山内さんの前ではなんでもないフリをしたけど、ホントはものすごくツラくて。“リコ”って、元カノの名前じゃないかな~って想像しちゃったり」
その言葉を聞いたレナが、あからさまに目をそらすのを、麻衣は見逃さなかった。
「もしかしてレナさん、なにか知ってます…?」
レナは申し訳なさそうに、パソコン越しの麻衣を見る。
「その“リコ”って人、元カノだと思う…」
「え、どうしてレナさんが知ってるんですか?」
「私もそのリコさんと、知り合いなんだよね。山内くんって確か、ついこの前まで同じ会社の女性とお付き合いしてたみたいで…」
レナが語尾を弱めたのは、麻衣の顔からみるみるうちに表情が消えていったからだ。
「えっ、そうなんですか…?」
文字通り蚊の鳴くような声だった。
「変なこと言ってほんとにごめん。私の記憶も曖昧だし、あんまり気にしすぎないで」
レナも必死でフォローするが、麻衣の頭の中は“元カノ”の存在でいっぱいになる。
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