
煮沸 第二章:遭遇
◆研究室
根本的な問題に悩むには、自分と、そして人々は歳をとりすぎた。
刑法凡例各論の書を読みながら、井口は思う。
ーこれは、”含み”ではない。”雑”なのだ。
『刑法39条1項
「心神喪失者の行為は、罰しない」
刑法39条2項
「心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する」』
ー昨日警視庁から連絡がきた、担当配属の件。
「色々教えてやって欲しい」と。
…ならば教えるべきか。
国家公務員にとって、真に無意味なものは、”法との闘い”であると。
.
ーバタンッ
ドアのノックとほぼ同時に扉が開き、痩身の男が研究室に入ってくる。
人は、相手の顔を見て1秒で人物を判断しているというが、顔を見る前から、その男の品性を井口は判断できた。
少し酒に焼けたような声を男が絞り出す。
「すいませんね、井口先生。うちのもんが何度も何度も」
井口は、備え付けの小さな冷蔵庫から季節外れの麦茶を取り出す。
「…どうぞ」
男は、その声とほぼ同時に、麦茶を口にする。
井口が、目の前に座った男をゆっくりと見る。
年齢は50歳を少し超えたくらいであろうか。
彫刻のような顔に深く刻まれた皺とはあまりにも不似合な、子供のように輝く大きな瞳に、違和感を覚える。
「工藤って言います。暫く私でいくってなったんで、色々お世話んなります」
瞳のままの幼稚な口調で、工藤が挨拶をする。
井口が静かに口を開く。
「…大変な案件を」
静かな研究室に不釣り合いな大声が鳴り響く。
「ま、はっきり言って誰もやりたがらないんですよ!なんたってこれだけ死んでりゃ、閉じるまで長いですからね。世間に注目されてると、失敗したら埴輪になるし、解決したって誰か救われるわけでもないし。
でね、先生、知ってます?ここだけの話、こういうの、典型的な”姥捨て案件”って言うんですよ。笑っちゃうでしょ?もう先が無いのがあてがわれるんですよ!世間の人気と、警察内部の人気ってのは違うから、ハハハ」
初対面の関係者に、思慮を欠く言葉を吐き続ける工藤に、この事件が”姥捨て”であることは本当なのだろう、と井口は思う。
「でもねぇ、どんな仕事でも、隙間産業ってやつですよ。刑事だって出世案件なんか乗り出すと、まあ競争激しいですから。
こっちはね、毎月銀行口座にお金がボンってね、食ってけりゃいいんですから。あと10年、穏やかにお給料頂戴するにはどうしたらいいかって知恵を絞った結果、”姥捨て専門家”ってやつになったんですよ」
「…工藤さん。過ぎませんか?ご遺族だっているんですよ」
「遺族ったって、殺られたの全員ロクでもない連中でしょ?案外喜んでたりしてね」
・・・一瞬。工藤の目から輝きが失せる。
「それで、井口先生。もう1回、橋上恵一の半生ってやつをわかりやすく、ご高説いただけますか?」
ロクでもない連中…
殺人を犯した人間の背景を、”わかりやすく”説明しろと迫るこの刑事に、井口は事件を頭に思い浮かべた後、不謹慎だと思いつつ、あることを想う。
ー類は友を呼ぶ
と。
この記事へのコメント
工藤、かっこよすぎる!!!
最近東カレご無沙汰しておりましたが、これを読むために戻って参りました。
続きありがとうございます!!!