―誰かに恋焦がれるなんて、もうないと思っていた―
夢中になって仕事をしてきた大人の男女は、いつしか恋する気持ちを忘れてしまう。
IT企業を経営する石田洋介(41)もそのうちの一人。
恋に不器用なオトナたちは、久しぶりの恋に戸惑いながらも、大切な人との愛を実らせることができるのだろうかー?
「社長。来週木曜日の小泉さんとの会食ですが、13時からになりました」
洋介が会社の顧問弁護士との打ち合わせを終えて席に戻ると、秘書の香織が報告してきた。
「ありがとう、じゃあ…」
そこまで口にすると、香織は間髪入れずにこう言った。
「奥様とお子さんに喜んでいただけるようなお土産、でよろしいですか?」
―さすがだな…。
洋介は軽くうなずきながら、心の中でそう呟いた。
女性らしく柔らかな雰囲気とは裏腹に、香織の仕事は常にテキパキとしており、秘書としての能力は抜群であった。
10年前のちょうど今の時期、洋介はIT系の会社を起業した。今でこそ社員は100人を超えるが、当時はこんなに大きな会社になるとは思ってもみなかった。
多くの人に助けられてきたが、特に香織の貢献は計り知れず、苦楽を共にした仲だ。起業10年目という節目で、洋介は日頃の感謝を込めて、ささやかながら香織と創業時から世話になっている顧問弁護士の綾子をディナーに誘った。
◆
店は会社から少し離れた、普段なら滅多に行かないようなレストランを予約した。店名を告げると香織は目を輝かせて喜んだ。
席につき食事が進んだところで、香織が最近デートしている相手について話し始めた。聞けば相手は医師で、友人から紹介されたという。
「私、今回ばかりは本気なんです…!」
「香織さん、いつもそんなこと言ってない??」
香織が少し興奮気味に話すと、横から綾子が冷静にツッコミを入れる。
―そうか、香織もついに結婚か……。今年で36歳だっけ。
表向きは「いいね」とにこやかに反応した洋介だが、内心ちょっと複雑な気持ちだった。これまで仕事の話ばかりで、香織の恋愛話を聞くのは初めてだったのだ。
一方の綾子はというと、香織より3歳年上だが、結婚なんて興味がないという感じだ。大手法律事務所に勤める彼女は、キャリアを積む方が大事なのだろう。
「洋介さんは、最近どうなんですか??」
少し無口になってしまった洋介の様子を察したのか、香織が、邪気のない笑顔で聞いてきた。
「俺は相変わらずだよ。……2人とも仕事ばかりしてると、俺みたいになっちゃうぞ」
そう冗談めかして言うと、2人は苦笑した。
起業して10年。この間、多くのものを犠牲にしてきた。
…元妻との時間もそうだった。仕事に夢中で家庭を顧みず、結婚してわずか3年で離婚。
涙を流しながら離婚届に判を押した妻の姿を思い出すと、今でも胸が締め付けられる。当時の辛さを思い出すと、洋介にとっては「結婚」はおろか、「恋」さえも考えられない。
―俺は、もう誰かに恋焦がれるなんてことはないのだろうか?
楽しそうに話す2人の姿を見て、ぼんやりとそんなことを考えていた。