優雅な時間が一瞬で壊れる
私は家に帰るとすぐ、お気に入りの珈琲豆・ブラックアイボリーをミルで挽いた。手のひらに響く振動、そして立ちあがる珈琲の豊潤な香り…私は思わずうっとりした。
父は朝早くに出かけたので、気兼ねすることなくのんびり過ごせる。そう思うだけで気分が上がる。
家事手伝いと言っても、実際、私は…家事をしたことがない。いや、それは手伝う隙がないほど、完璧な家事を父がこなしてしまうからだ。
「執筆の息抜きになるから、私がやる。帆希は自分の好きなことをやりなさい」
それが父の口癖だった。
私にとっての好きなことは、自由な時間を過ごすことだ。徒歩圏内にある素敵なお店で美味しいものを頂き、ピラティスで体幹を鍛え、書道やお茶、お花を嗜む…何よりの贅沢な時間だ。
この時間を手放すことはなかなか出来ない。
月に一度、会うか会わないかの腐れ縁となっている彼からもしプロポーズされたとしても…今さらこの生活を手放して結婚できるかどうか…。
そんなことを考えている私のもとに一本の電話があった。警察からだ。
「高木港一さんのご家族の方でしょうか?」
「はい…娘ですけど…父に何か……?」
「突然のことで驚かれるかと思いますが…ついさっき心臓発作でお亡くなりになりました」
ー父が…亡くなった?嘘……冗談でしょ。
電話の向こうでしゃべり続ける警察官の声が、どんどん遠くなっていく。きっとこれは悪い冗談だ。あれだ、きっと。コメンテーターで顔が売れてきたもんだから、嫌がらせか何かよ。
それとも、どっきりみたいなバラエティ!そうに、決まってる!
質素で生真面目で、お酒も飲まない煙草も吸わない、そんな父が…どうして?
「聞こえてらっしゃいます?お嬢さん!」
ふと大きな声をかけられて我に返った私は、指示された場所のメモを取っていた。手が震えて、うまく書けない。
揺れる住所と電話番号…私は、完全に、動転していた。
◆
ー 人ってこんなにも冷たくなるんだ……。
ー 亡骸とは言い得て妙だなぁ
私は父の頬に触れた時、そんなことをぼんやりと考えていた。目の前にある亡骸は、“父”だったものであって、父ではない。だから、哀しいとか寂しいとか情緒溢れる感情が浮かぶことはなかった。
ーじゃ、お父さんは、どこへいっちゃったんだろう…。
心の中でそう呟いても、父はもう帰ってはこない。
帰ってくることは…ないのだ。
兄の航も駆けつけ、今、別の部屋で事情説明を受けている。私は、父だったものの前で、ふと思った一言を声に出した。
「…素朴な疑問なんですけど…私って…どうなるの?ねぇ!」
だけど無情にも返事はなく、私はただじっと、父の亡骸を眺めていた。
この記事へのコメント
説教して娘に嫌われるのが嫌だったのかもしれないけど、いきなり放り出すのは無責任。
散々甘い顔をしてきた父親にも問題があると思う。