オールドリッチの悲哀 Vol.1

オールドリッチの悲哀:資産が数十億あっても満たされぬ。不自由ない人生で感じる虚しさ

オールドリッチはニューリッチより格上なのか?


タクシーは30分ほどで、自宅である代々木上原の低層マンションに到着した。

バブル時代の100㎡越え3LDKのマンションは30代の夫婦には分不相応だが、これも岩原家の資産であるため家賃はかからない。

一流企業に無料の住まい。康介の生活を多くの人は羨むことだろう。だが、独立志向が強い康介は、自身の血統に首輪をつけられているような息苦しさを感じていた。

「おかえりなさい。今夜も遅かったわね」

ドアを開けると、穏やかな声が康介を迎え入れた。

時刻はすでに25時を回っていたが、4歳年下の妻・ゆかりは、深夜でもきちんと夫の帰りを迎え入れ、リビングで上着を受け取ってくれる。

ゆかりは、祖母の代から聖心女子学院という一族で育ったお嬢様だ。

激務で忙殺されることの多い康介は、こういったゆかりの貞淑さに幾度も癒されていた。

しかし、くつろいだ気持ちになれたのも束の間のこと。

ネクタイを緩める康介の背後で、ゆかりのため息まじりの声が聞こえる。

「ねぇ康介、ちょっと聞いてくれない?」

康介の返事を待たずして、ゆかりはほとほと困り果てた、といった顔で話しはじめた。


「清水純也くんのママがね、お月謝を封筒にも入れずに持ってきたの。先生の手に小銭をジャラジャラ落としてるのを見て、私恥ずかしくて…」

ーまた、お決まりの愚痴か。

ここ半年ゆかりの発する話題は、4歳の息子・健一が通う日舞教室のママ友「清水さん」の愚痴ばかりだ。

お嬢様として厳しく躾られてきたゆかりにとって、一代で財を成した夫を持つ「ニューリッチ」の振る舞いは目に余るらしい。

康介はあいまいに相槌を打ちながら、心の芯が冷えていくのを感じた。置いたばかりのカバンからはみ出た日経新聞を見やる。

「常識のない清水さん」の夫である清水裕也のインタビュー記事が掲載されていたからだ。広告代理店を起こすという夢が胸にくすぶる康介は、つい業界の動向をチェックしてしまう。

清水裕也といえば、新進気鋭のネット広告会社の社長として知られ始めた経営者だ。しかし、どれだけ成功していても東北の田舎育ちの駒澤大学中退という清水の経歴は、ゆかりにとって異世界の住人のように感じられるのだろう。

一方の康介は、オールドリッチのボンボン。努力らしい努力も、挫折らしい挫折も知らない男。ゆかりにとってはこれこそが「普通」である、オールドリッチの世界に生きる男。

この生活に不満があると言ったら、きっとバチがあたるだろう。

しかし、康介はゆかりから清水家の愚痴を聞くたびに、自分が責められているような気分になる。

ー親父のコネで入った会社で毎日酒をかっくらうだけの男と、自分の力で財をなした男、一体どちらが上等だというんだ?

康介の家の中は上質なものばかりで揃えられている。家具はもちろん、家電も、衣服も、カーテンも、バスタオル1枚だって、どれをとっても“上質”と言われるものばかりだ。

だが、その上質なものに囲まれた自分は、自分の生き方に誇りも持てずに日々を過ごしている。

ー滑稽だよなぁ…

小さく呟いた康介の声が、ゆかりの愚痴に搔き消される。

「それでね、清水さんの帯の選び方もおかしいのよ。この前なんて…」

彼女の愚痴はまだ止まりそうにない。酔いと鬱屈とした気持ちが混濁する。

「…いい加減にしろ」

静寂が2人を包む。

自分が驚くほど冷たい声で妻を抑止した事を理解したのは、凍りついた妻の姿を目の当たりにしてからだった。

この記事へのコメント

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No Name
代々続く~、老舗の~、家柄の~、って家の人は多かれ少なかれこういうくすぶった思いを持ってるんだろうなあ。ただ「自分にはできる」って言うのが下駄はかせて貰ってる場合もあって、一人になったとたんに看板とか名前とか会社にどれだけ守られてたか痛感するって、よくあるよね。
2018/09/22 05:3499+返信14件
No Name
本当に心の底から起業したいなら、とっくにしてると思うので、これは起業スルスル詐欺ですね。
2018/09/22 05:3299+返信5件
No Name
無い物ねだりってヤツです。
ゆかりも心の中では清水が伸びていくのが羨ましくて、ケチつけたいだけ。
2018/09/22 05:4499+返信1件
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