プライドと安定。オールドリッチのボンボンの幸せは、どちらなのか
蒼白なゆかりの顔を見て、康介は罪悪感に襲われた。
しかし今夜は、チラチラと目に入る日経新聞のせいか、ただ単に酔っているだけなのか、これまで決して口にしてこなかった言葉が溢れてくる。
「俺さあ、会社を辞めて起業したいんだ。…ずっと考えてたんだ。どこまでやれるのか、自分の力を試したいって」
康介の心の中では、長年くすぶってきた想いだった。しかし、ゆかりにとっては晴天の霹靂だろう。
ゆかりが康介を選んだ理由には、同じオールドリッチ同士リスクの少ない豊かな生活を送れる、という思いも少なからずあったはずだ。
会社を辞めるなんて、父が許す訳がない。少なくともこの家は出ることになるだろう。失敗したら…健一の親権すら両親に譲るように言われかねない。
盤石なオールドリッチの生活が、自分の夢のせいで崩れてしまうかもしれない。苦労知らずのお嬢様であるゆかりが、そんな一か八かのチャレンジを受け入れられるはずもなかった。
「そんな…岩原家の後ろ盾なしに、健一のお受験はどうなるの?もし起業に失敗したら、世間からどう見られるか…」
ゆかりが悲痛な声でつぶやく。その怯える姿を前にして、康介は大きな無力感を味わうとともに、少しの安堵も覚えるのだった。
乾いた笑いが口の端から漏れる。
「…ちょっと飲みすぎたみたいだ。もう寝るよ」
立ち尽くすゆかりをリビングに残したまま、康介は寝室へと向かった。
◆
翌朝8時。遅めの朝を迎えた康介は、着替えを済ませリビングダイニングへ向かった。
「康介、おはよう」
慌ただしく健一の世話を焼きながら、ゆかりが声をかけてくる。いつもと変わらない朝。昨夜の出来事など夢だったかのようだ。
食卓につき、テレビを点ける。二日酔いの頭で朝のニュースをぼんやり見つめていると、ゆかりが熱いコーヒーを運んできてくれた。
当たり障りのない家族の会話を交わしていたその時、テレビの画面に清水が映った。清水の会社がついにマザーズ上場を果たすらしい。ボリュームを上げようとリモコンに手を伸ばしたその時だった。
ゆかりが恐ろしい勢いで目の前のリモコンを奪った。
驚いてゆかりの顔を見上げる。能面のように真っ白な顔のゆかりが、テレビを消した。
「康介。そろそろ出勤の時間じゃない?」
にっこりと微笑むゆかり。その微笑みに、昨日までは活力をもらっていたはずだった。しかし、今はただ薄ら寒いものを感じる。
言われるままに玄関へと追いやられる。恭しくスーツの上着を着せながら、ゆかりは言った。
「康介、私思うの。この生活を守っていくことこそが、私たちの幸せであり使命だって。だから、おかしなこと考えないでね」
『バカなこと言ってないで、考え直せ…』
ゆかりの言葉に、父の言葉が重なる。重たい扉が閉まった。
ー少しでも応援してもらえると思ったか?
ーこれでいい。今日も、不安のない穏やかな1日が始まる。
ー俺は一族の汚点にならずに済むし、妻は安心していられる。健一も母校へと進学するだろう。
グルグルと考えが渦巻く中、スマホで先ほどのニュースをチェックし直す。画面には、清水の笑顔が映っている。
康介は強い敗北感を体の奥へと押し込むように、ごくりと息を飲み込んだ。
▶NEXT:9月29日 土曜更新予定
ド派手ニューリッチ達が台頭する名門校で、斜陽オールドリッチたちの立場は?
東京カレンダーが運営するレストラン予約サービス「グルカレ」でワンランク上の食体験を。
今、日本橋には話題のレストランの続々出店中。デートにおすすめのレストランはこちら!
日本橋デートにおすすめのレストラン
この記事へのコメント
ゆかりも心の中では清水が伸びていくのが羨ましくて、ケチつけたいだけ。