「さ、そろそろ行くかな」
丁寧に身支度を終えた花純は、足取りも軽く家を出た。
しかし向かう先は…残念ながらデートなどではない。ただの休日出勤である。
というのも、実は花純には、美玲と話をした夜から密かに考えていたアイデアがあった。
−美容情報に特化した、コミュニケーションアプリを作ってみたい…!
あの日のことを振り返っていて、花純は気づいたことがあったのだ。
あの夜、美玲と話した会話の半分以上が美容に関することで、お互いの美容情報を教え合う(と言っても、美玲の情報を引き出す時間の方が圧倒的に長かったが)ときの熱量は、まるで高校生が恋愛トークをするのと変わらぬテンションだった。
そのくらい、32歳・岐路に立つ女にとって美容は最大の関心ごとであり、皆、信用できる口コミを熱く欲しているということである。
どこの誰が書いているのかわからない口コミサイトなら昔からあるが、今の時代に必要なのはその類ではない。
女たちは、自分と似たような趣味嗜好の、あるいは自分がこうなりたいと願うような女性の、飾らない生の声が知りたいはず。そんな、世の女性のニーズを満たすアプリが作れたら…。
ぼんやり頭に浮かぶアイデアを、早く企画書にまとめたい。
駅へと急ぐ足が、無意識に早くなる。休日出勤に向かうのにワクワクするなんて、初めてのことだ。
思いがけぬ誘い
人影まばらなオフィスで夢中でキーボードを叩いていると、突然、背後から男性の声がした。
「古市さんも、休日出勤?」
昔から集中すると周りが見えなくなるタイプではあったが、それにしてもすぐ傍に人が近づいてきても気づかないなんて。
慌てて振り返ると、営業部の若手・康介くんの姿があった。
「わ!びっくりした。そう、ちょっと形にしたいことがあって…康介くんも?」
花純の問いかけに柔らかな笑顔で頷く彼は、社内でも評判の爽やかイケメンだ。28歳という若さだが営業成績も優秀で、出世頭だと噂される好青年である。
「なんか古市さん…今日、雰囲気違いません?」
康介くんは躊躇いもなく隣のデスクに腰掛けると、無邪気に花純の顔を覗き込む。
「メイクが違うのかなぁ?なんか綺麗。って、普段も美人ですけど」
その距離の近さとまっすぐな褒め言葉に、花純は思わず目を泳がせる。
「え…?そ、そうかな。ありがと…」
4歳も年下の男に褒められ、動揺するなんて。
平常心を取り戻すべく、咳払いをして誤魔化す。そんな花純を面白そうに眺めると、康介くんは「じゃ、続き頑張ってください」と言いつつ腰を浮かした。
しかし数歩離れた後、ふいに花純を振り返ると、思いがけぬ言葉を発したのだ。
「古市さん。今日この後、一緒に食事でも行きません?」
◆
年上女の迷い
(数ヶ月後)
−…一体、どういう風の吹きまわしだろう。
朝、洗顔をしながら花純はぼんやりと考える。
休日出勤をしたあの日、康介に誘われ一緒に食事に行った。
しかしそれはたまたまその日、彼自身に予定がなく、さらに同じく暇そうな花純がその場にいたから声をかけただけに違いない。
違いないのだが、なぜか康介はそのあとも、たびたび花純を食事に誘う。
この数ヶ月はほぼ仕事漬けの日々だったが、遅くまで残業している花純に康介の方から「サクッと飲んで帰りません?」などと声をかけてくれ、何度かデートを重ねているのだった。
そして今週はいよいよ、花純が発案した自社開発のアプリが先行リリースされる。
対外的な公式発表に先がけ、社内及び関係者向けに説明会が開催されるのだが、その後にも「祝賀会しましょう」と康介から食事に誘われていた。
彼は社内でも評判のイケメンだし、花純も正直、好意がある。
しかし彼はまだ28歳。自分が4歳も年上であることを思い出すたび、心の奥が何かを諦めるように冷たくなってしまうのも事実だった。
−ダメダメ。とにかく今は仕事よ…!
花純はそう思い直し、すでにルーティーンとなっている土台美容液に手を伸ばした。
柔らかな泡をなじませると、たったそれだけで肌がワントーン明るくなったように見えて、花純は少しばかり回復した自信を胸に、出社に向けて身支度を急ぐのだった。