ノリオとジュリエット Vol.9

金より愛。京都・老舗和菓子屋のご令嬢が、愛する庶民男のためにすべてを捨てた夜

百瀬が、薫を口説いていた。しかも一度や二度でなく、長年に渡って。

よくよく考えてみれば、おかしな点はあった。

以前に樹里から聞いた話によれば、ふたりが24歳の時に一度縁談が進んでいる。しかしはっきり拒絶をした樹里に百瀬は「30歳まで独身だったら、僕と結婚しよう」と申し出たらしい。

彼女の話だけを聞いていたときは、少なくとも百瀬のほうは、幼い頃からよく知る樹里を心から愛しており、結婚するならこの人しかいないと純愛を貫いているのだと思った。

しかしその人物像と、紀夫の家にまで押しかけ、手切れ金500万円で樹里との縁を切らせようとした百瀬には大きなギャップがある。

しかも24歳から現在まで、5年の歳月が流れている。百瀬は、名の知れた老舗味噌屋の次男。美男子というわけではないにしろ育ちの良さを感じる端正な顔立ちで、高級車を乗り回す男だ。

そんな男に、女の影がない方がおかしい。

それでも百瀬が樹里に執着するのは、家を継げない次男である彼が、全国区で知名度のある老舗和菓子屋の婿養子になることにメリットを感じているからではないのか…?

“会って、話がしたい”

樹里にLINEを送ったのは、ほとんど衝動的だった。

竹田駅を降り家路を歩く紀夫の頬を撫でる、どこか切なさ漂う夏の夜風が後押しをしたのかも知れない。

指先を離れたメッセージが彼女の元に届くのを、紀夫は祈るような思いでしばらく見つめていた。

ご令嬢が、すべてを捨てた夜


メッセージはしばらくして既読になったものの、樹里からの返信はない。

しかし事が急展開したのは、それから3日後の夜だった。

紀夫はいつも通り21時過ぎに最寄りの竹田駅に到着し、いつも通りコンビニに立ち寄って弁当とお茶、ビールなどを買った。

自宅に戻り空腹を満たして、シャワーでも浴びようかと思って立ち上がった時、思いがけず玄関チャイムが鳴ったのだ。

来客の予定などないが、宅配便が来るには時間が遅すぎる。

−もしかして…。

樹里の顔が浮かんだのは、直感というより願望だろう。しかし慌てて応答したインターフォンの画面に映る姿は、紛いなく樹里のそれだった。


玄関に現れた彼女は真っ白なワンピース姿で、ともすると消え入りそうな幻覚のように映る。

咄嗟のことに戸惑いながらも、紀夫は彼女の存在を確かめるようにして中へ入るよう促した。

そしてその時にようやく、彼女が手に持っている、大きなスーツケースが目に入ったのだ。

「紀夫さん......


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