東洋経済・東京鉄道事情 Vol.49

丸ノ内線の「あの駅」はこれから大きく変わる!?

しかし1940年代に入ると、東京の鉄道を民間企業が自由に開発するのは混乱を招くという意見が多数を占めるようになり、1941年に営団地下鉄が設立。東京地下鉄道、東京高速鉄道、東京市(現在の東京23区)などが計画および運行していた地下鉄道は、ここに一元化されることになった。

車両基地に停まる丸ノ内線車両。左が3両編成の支線用、右が6両編成の本線用(筆者撮影)

営団地下鉄は翌年、現在の丸ノ内線に相当するルートのうち、先行して赤坂見附-四ツ谷間の工事を始める。間もなく第二次大戦が激化し、工事は中止されるが、その後も営団は将来に向けた布石を打った。1944年、現在中野車両基地がある土地を入手していたのだ。

この付近は神田川と善福寺川が合流しており、洪水が絶えなかったという。住居や耕作には使いにくい土地だったこともあり、安価に入手できたらしい。

戦争が終わり、翌年「復興都市計画高速鉄道網」という名前で、5路線からなる地下鉄計画が発表される。ここでは東京湾側から順に1号線、2号線と名付けられており、3号線がすでに営業運転を行っていた銀座線、そして4号線が現在の丸ノ内線に相当するルートだった。

終点は荻窪ではなく中野富士見町のはずだった

4号線の起点は池袋の西側、現在の有楽町線・副都心線小竹向原に近い場所にあり、終点は新宿からまっすぐ西へ伸びて中野富士見町に至っていた。市街地が郊外へと拡大していくことを見込んだ計画だったためもあったが、新宿側の終点が中野富士見町になっていたのは、もちろん戦時中に手に入れていた土地を車庫として活用するためだった。

工事は1951年、池袋側から再開され、3年後に丸ノ内線の名前とともに、池袋-御茶ノ水間が開業した。その後少しずつ路線を延伸し、1959年に新宿まで到達している。

ところがこの間の経済成長のスピードは、多くの人の予想を上回っていた。鉄道の分野でとくに議論に上ったのは、ピーク時には混雑率300%に達していた国鉄(現在のJR東日本)中央線の混雑だった。

これを解消すべく、国鉄はそれまで中野までだった複々線区間を三鷹まで延長するなどの対策に取り掛かったが、それだけでは不十分だった。西武鉄道軌道線をルーツとする東京都電杉並線(新宿駅前-荻窪駅前)は、もともと時間が掛かっていたうえに、自動車の増加でさらに時間が読めない乗り物になっていた。

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