「え、まさか。そんなことないけど?」
目を大きく見開き、驚いた調子で返したが、遥は「本当かな~」と楽しそうに疑いの目を向けてくる。
「ちょっとした噂になってるわよ」
遥は、それだけ言うとヒラリと右手を広げて先にエレベーターを降りてしまった。
―そんな噂が……?
涼子は、浩市に対して好感は持っていたが、男性としては特に意識していなかった。だが、遥に噂の事を言われて以来、浩市の事を変に意識するようになってしまった。
落ち着いた喋り方、品のある食事の所作、レストランでの涼子や店のスタッフへのさりげない気遣い……。思い返してみれば、浩市は大人の男性として非の打ちどころのない男なのだ。
だが涼子が淡い恋心を持った時、同時に浩市に対する、ある疑惑が湧いてきたのだった。
二人で食事をしていても、浩市はしきりに時間を気にして、涼子が化粧室に立った時にはすかさずスマホをチェックする。ある時はスマホを見ながら顔を緩めていた事もあった。
2軒目に行くこともほとんどなく、そそくさと帰るのだ。帰り際は、心ここにあらずという雰囲気の事さえあった気がする。
―本当は彼女がいたりして。まさか……結婚してるとか?あんなに素敵な人なんだから、十分あり得る。。。
嫌な疑惑が涼子の中で浮上してきた。疑い始めると、不自然な点がいくつも思い浮かぶのだ。
会社の人間にそれとなく探りを入れるが、「独身のはずだよ?」と言われるばかり。
―じゃあ、同棲とか?
ネガティブな想像はどんどん膨らみ、涼子はついに意を決して聞いてみることにした。
「ちょっと変な事聞きますが、浩市さんってもしかして同棲とかしてます?」 「え、一人暮らしだよ」 とぼけた顔で浩市は言うが、なんだか怪しい。。。しつこいと思われてもいい!と思い、もう一度聞いてみると「実は…」と浩市は話し始めた。
「犬を飼ってるんだ。友達から、一人暮らしの男が犬飼ってるなんて言わない方がいいと言われたのを真に受けて、あまり言わないようにしてたんだ。人によっては引く女性もいるって言われてね」
「え?犬?」
「そう、柴犬。アメリカに行ってる間は実家に預けてたんだけど、ちゃんと覚えてくれてるんだから嬉しいよね」
そう話す浩市の顔は、今までになく優しさに満ちていた。
「ほら、よかったら見てよ」
差し出されたスマホ画面には、ソファで寝ている犬が映った。
「ペットカメラ。これで留守中の様子を見るのが楽しみで」
照れながら話す浩市は、すっかり目尻を下げて親バカ状態。
―なんだぁ……。
涼子がほっと胸を撫で下ろしていると、彼から思いがけない言葉がでてきた。
「もしよかったら今度、うちの犬と遊んでよ」
休日の午後、ペットOKのカフェに一緒に行こうと誘われたのだ。
「暖かいテラス席で美味しいブランチでも食べて、代々木公園を散歩したりさ」
浩市は、照れ隠しをするように首元を右手で摩りながら言うのだった。いつもは落ち着いて堂々としている彼にそんな一面があることを知り、涼子の胸の奥がくすぐられた。
「もちろん!私も実家で犬飼ってたから、大好きなんですよ」
力が入り、つい大きな声で答えてしまって恥ずかしくなった。だが浩市は笑顔のままこう言った。
「本当に、涼子さんはいつも元気だなあ」
初めて「涼子さん」と言われて、涼子の胸の高鳴りはさらに大きくなるのだった。
(おわり)
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